踏み倒す前提の期待

この国には金がないし、今後もどんどんなくなっていくとされているにもかかわらず、何故だか国は理論研究という、収益の上がる道理のない分野に予算をつぎ込んでいる。

 

当の理論研究者として、国の行動は到底理解不能だ。国を豊かにするビジョンのまるで見えない集団を、何故だか国は飼い続けている。こう書くとペットか何かのようだが、あいにく動物たちと違って、可愛くも忠実でもない。

 

もうすこし好意的には、こういう解釈もできる。

 

大人の世界において、金をかけることとは期待をかけることだ。いま現在、儲けがある必要はない。物質的な富ではなく、投資こそが経済を回すのだ。だからこそ、特に最大手でもなんでもない電気自動車会社の社長が、世界一の大富豪になったりするのだ。

 

ではいったい、わたしたちには、果たしてどういう投資がされているのだろう。

 

統計的な得、というのは答えのひとつではある。

 

産業革命以降の歴史上ずっと、科学技術は社会の発展を支え続けてきた。負の行為に使われた技術もあるが、全体として、科学は社会に大きな正の貢献をしたと考えてよかろう。現在でも構図は変わらず、実際にさまざまな民間企業が、研究部門を設けて未来の製品の開発に勤しんでいる。

 

このことから類推するに、おそらく研究という営みの一部は、ものすごく金になる。金になるまでに時間がかかることはあるかもしれないが、先進国のような体力ある母体にとって、耐えられない時間ではおそらくない。「研究」ということばですべてを一括りにしてしまえば、研究には投資に値するだけの価値があると言える。

 

そしてその、すべてを一緒くたにするまやかしが、わたしたちの立場を安全にしてくれている。

 

研究という営みのほとんどは、びた一文利益を生み出さない。金にならない研究、と言っても色々あって、ある一部はわかりやすくリターンがありえず、また別の一部は、一大産業を生み出すという期待をかけられつつ、残念ながらうまくいかなかった技術だ。うんと解像度を下げてみれば、こういうことが言える。結果的には、どちらも失敗した投資に過ぎないのだ、と。そして他の成功した投資と合算すれば、トータルでは大きな、失敗など無視できるほどの得をしているのだ、と。

 

かくして。投資というレトリックは、一部が成功することをもって、わたしたちの存在を守ってくれている。だが成功の物語には興味がないから、ここからは失敗の側の話をしよう。

 

理論とは奇妙なものだ。はじめから失敗を宿命づけられているのに、何故だか存在しつづけている。いや。存在する理由を説明することはできるが、どれも具体性か合理性、あるいはその両方を欠いている、というのが正確だろうか。学者の衒学趣味の結晶。あるいは、研究が貴族の嗜みだった時代の名残。社会の洗練につれて、排除されていくべき存在体系。

 

そして。社会とて馬鹿ばかりではないから、実際わたしたちは徐々に、排除されるべくして排除されていっている。

 

踏み倒す前提の期待を、わたしたちは掛けさせる。研究という巨大な機構の一部分という顔をして、のうのうと存在し続けている。数撃ちゃ当たるらしい下手な鉄砲の弾、それに紛れ込んだあからさまな空砲。

 

まあ。役立たずだと分かっているからといって、別に辞める理由にはならない。だって。

 

かけられている期待が統計的なものである以上。何も生み出さなかったとしても、期待を裏切ったことにはならないだろうから。

夢の具体性

なんの役に立つのかわからない研究は数あれど、理論研究の役立たずは頭ひとつ抜けている。そこそこの予算を投じられていながら、わたしたちのやる研究は、世界の物質的な発展になにひとつ直接的な貢献をもたらさないからだ。理論なるものはどこまで行ってもはただの文章であり、きわめて難解なそれを理解できる同業者が読んではじめて、多少の役立たずなアイデアが浮かんでくるものにすぎないのだ。

 

これが他の分野の基礎研究だったら、話はまだ違ったかもしれない。新しい物質はすくなくとも、世界に新しい可能性を提示している。たいていの場合可能性とは新しい薬のことで、役立たずの言い訳にしてもさすがに一辺倒が過ぎるだろうと思うのだけれど、とにかく世界はひとつ、物質的豊かさを獲得している。それでよしとするかは……まあ、見るひとの感性によるだろう。

 

……いや、違わないかもしれない。新しい物質と、新しい考え方。同業者にしか取り扱えず、そして同業者であっても、どう使えばいいのかまるで分からないアウトプット。

 

まあ、いい。

 

とにかくそれでもなぜか、わたしたちは存在を許容されている。わたしたちにつく予算は減ってはいるが、ゼロになったりもしていない。

 

予算がつくということは、すなわち期待されているということだ。具体的になにを、と問われればはたと困ってしまうのだが、とにかくわたしたちがなにかの役に立つ日を夢見ている役人がいる。その夢にかこつけて、わたしたちは生きながらえている。

 

ではそれは、どういう夢なのか。

 

理論屋の常として、わたしはあいまいさが嫌いだ。夢、などというきわめてあいまいなことばでお茶を濁されれば、ついついわたしはこう反論してしまいたくなる。「リーマン予想が解けたところで、社会にどんなインパクトがあるとお思いですか。数学者は重要な予想だと思っているようですが、あなたにとって予想の解決は、どういう夢のかたちなのですか?」

 

極端な例ではある。だがもしわたしが文部科学省の役人で、財務省から予算削減の絶え間ない圧力を受けているのならば、きっと同じようなことを言うだろう。

 

では、逆に。そう言わないひとは夢というものを、どういうふうにとらえているのだろう。

 

あいまいな夢に価値はない、というこれまでの議論。わたし自身が信奉するこの論理は、裏を返せばこんなことにもなる。具体性に乏しい夢を許容できるのならば、もしかすると理論研究にも、それなりの価値を見出すことができるのかもしれない。そんなものが夢と呼べるのかはさておき、一考の余地のある論理ではあるだろう。

 

下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる。理論を含めた基礎研究は、しばしばそういう風に呼称されもする。そのことばの中に、夢らしき物語の居場所はない。ただ単に、命中率という統計的事実があるだけだ。

 

そう、統計的事実が。夢とは案外、そういうドライな話なのかもしれない。

研究の評価基準

理論研究というものは、折に触れてその意義を問われがちだ。役に立たない研究を、やる必要はあるのか。金にならない研究に、つける予算はあるのか。短絡的で、刹那的で、そして至極まっとうなその手の問いは、理論の研究者であるわたしたちを常に苦しめ続ける。

 

それらの問いは必ずしも、アカデミアの外部から投げかけられるとは限らない。というより、外部からの文句はそう気にならない。外部の人間にとって、およそ理論というものはあまりに難解で、彼らがわたしたちのやっている内容を理解していることはほとんどない。しかるに彼らは、本質的な批判をしてこない。

 

外部からの通りいっぺんの文句ならば、わたしたちは対応するすべを心得ている。文句のレパートリーが少ないから、自然と慣れるのだ。

 

対応の方針には二段階ある。基本的には、その手の話題から距離を置くこと。必要以上に出しゃばって権利意識をひけらかりたり、境遇を嘆いたりしないこと。あるいは、俗世や金にはまったく興味ありませんというふりをして、このひとに聞いても無駄だと思わせること。要するにもろもろの影に隠れて、批判しようと思わせなければいいのだ。

 

それでも好奇心旺盛な少数は、影の奥からわたしたちを見つけだしてくる。そういう相手には、数百年後に役に立つかもしれない、などといった適当なハッタリをかませばよい。自分自身そう信じていなかったとしても、相手だってどうせ、具体的な内容は理解できないのだ。ほとんどの相手は、釈然としない表情を浮かべながら立ち去ってくれる。

 

それでいいのだ。世の中は、そういうあいまいなバランスで回っている。

 

だが相手が同業者となると、話はまるで違う。難解なはずの理論を、同業者はあろうことか理解してしまうのだ。ハッタリでその目を欺くのは難しい。目立たないようにする、という策は依然として有効ではあるが、それとてわたしたちが、成果を発表したり申請書を書いたりしなければの話だ。

 

というわけで、わたしたちの選択肢はひとつだ。同業者から見て、意義のある研究をする。自分では意義なんて感じていなくても、とにかくそう見えるようにする。

 

そして。これはこれまで何度も書いてきたことだが、問題はわたし個人が、研究の意義なるものをまったく理解できないことだ。

 

わたしたちのやっている研究はまったくの無意味だ、とわたしは固く信じている。だが少なくない数の研究者は、そう信じていない。彼らは意義のある研究と意義のない研究を峻別できる。そしてその基準は、彼ら自身の内部にある。他の研究者が気に入りそうかどうかといった、外部的な評価基準ではなく。

 

では、どうしてアプリオリに、そんな基準を持つことができるのだろうか。わたしと彼らとの違いとは、果たして何なのか。

 

それはおそらく、夢を見る能力、とでも呼べるものだろう。明日以降、気が向いたらその点について、書いていくことにしよう。

国民の擬人化

わたしたちはときに、なにか悪いことをした国家を非難することがある。

 

代表的なのは、戦争をはじめた国だ。帝国主義の時代ならいざ知らず、現代の国際社会において、政治的目的の達成に武力を用いるのはタブーとされているからだ。いかなる開戦行為をも非難する……という態度が絶対の正義なのかはともかく、十九世紀と違って、現代はそういうルールでできているのだ。ルールに違反したのだから、非難されるのは仕方がない。

 

だが国家という主体はあいまいだ。すくなくとも、明確な非難を向けるに値する、具体的な人格は存在しない。国家には国境線という概念があって、それはたしかに、国家の領域を明瞭に定義しているかもしれない――だがわたしたちの非難は、なにもその国家の土地へと向けられているわけではないのだ。

 

では、国家を非難するとき、わたしたちはいったい、具体的になにを非難しているのだろうか。

 

多くの場合、おそらくその疑問は、国家を擬人化することで解決されている。「アメリカの考え」「ロシアの意志」というように、あたかも国家が人格を持つかのように語るのだ。だがこの態度は正確とは呼べないだろう。なぜなら国家とは断じて、意志を持つ個人ではないのだから。

 

より興味深い立場は、国民に責任を押し付けることだ。こと民主主義国家――すなわち、抑圧や不正行為がある程度に抑制された選挙システムを持つ国――においては、次のような議論が成立するように見える。「国家を運営する主体を選んだのは、その国の国民である。だからその国の国民にも責任の一端がある」と。

 

いったいこの議論の、なにが面白いのか。わたしから見ればそれは、国民という主体が責任を持たせるに値すると思われているところだ。

 

意志はつねに、個人の中に宿る。個々人がだれに投票したか、これは間違いなく、責任を問うことのできる個人の意思だ。だが国民という主体は、国民という集団は、けっして意志を持つ個人ではない。国家が個人ではないのと、まったくおなじように。

 

にもかかわらず、国家ではなく国民になら責任を問えると考えてしまうのは。それはおそらくわたしたちに、国民を擬人化してしまう習性があるからだろう。

 

国民性、という概念がある。その国の国民が一般的に持っている傾向にある性格、と言うような意味だ。アメリカ人は分厚い肉を食い、豪快に笑う。ロシア人は宿命論者で、そして、権力との付き合い方を熟知している。エスニックジョーク。国民を擬人化する営み。海に飛び込んだらヒーローですよ。みんな飛び込んでますよ。飛び込むなと言われました。

 

その国に友人がいれば(もちろん、いなくても)、国民性という概念は過度な一般化であることが分かるはずだ。あたかも全員が同じ意志を持つかのように国民を擬人化するのは、愚かな試みだと気づくはずだ。だがそれでもわたしたちは、そういう単純な認識から抜け出せない。

 

話を戻そう。国家に責任を持たせられないのになぜ、国民には責任を持たせられるのだろうか。

 

それはおそらく、国民は国家よりはるかに擬人化がしやすいからだ。全員が単一の意志を持つ、完全に一様な集団として。

国家と国民への非難

罪を犯した個人が相応の非難を浴びるように、良くないなにかをやらかした国家は、当然それなりの批判を受けることになる。批判のやり方にもいろいろあって、たとえば経済制裁かもしれないし、政府の評判を下げる報道かもしれないし、場合によっては、軍事的な制裁であることもありうる。

 

批判する主体にもいろいろある。それはほかの国家かもしれない。国連などの国際機関かもしれない。あるいは国際メディアかもしれないし、単にある地域の市民全体が、なんとなくその国を嫌うのかもしれない。とにかく、誰かがどうにかして国を非難するのだ。

 

さて。だが国家なるものはきわめて曖昧だ。なんとなくわたしたちは国家に性格のようなものを想定しがちだけれども、実際のところ、国家に一貫した人格はないのだ。「アメリカはこう考えている」とか「ロシアはこういうことを企んでいる」とか言ったとき、考えたり企んだりしている主体は、アメリカそのものでもロシアそのものでもない。

 

実感しにくければ、「日本はこんな意図を持っている」で置き換えてみて欲しい。国家じたいには意図などなく、政治家同士の駆け引きとかそういうもっと複雑な問題の中で、意図のようなものが発生しているように見えるだけだとわかるはずだ。

 

だから。国家を批判するというのは、なかなかに難しいものを批判していることになるわけである。

 

もうすこし分かりやすくはなってくれないか。指をさす対象は分かりやすい方がいいから、わたしたちはそう考える。国家に人格がないとすれば、では、だれを問い詰めればいいのだろうか。

 

相手が独裁国家であれば、答えは比較的容易だ。国家と違って独裁者には人格があり、人格のある相手は適切に非難しやすい。敵は悪意の独裁者個人で、そんな奴に支配されている民衆は被害者だ……というふうに、非難すべき敵と同情すべき味方をはっきりと区別することができる。

 

相手が民主国家であれば、状況はややこしくなる。国家に人格がないように、国民にもまた人格はないからだ。国民のひとりひとりは人格を持つし、個人的に非難したり同情したりできる相手だが、国民という集団にはそうはいかない。国家の行動に反対する国民もいれば支持する国民もいて、それらを一緒くたに扱おうとしても、まず上手くはいかないだろう。

 

それでもわたしたちは、あたかも国民に人格があるかのように、こんなことを言う。「国家がこんなことをしたのは、そういう政権を選んだ国民の責任なのだ」と。

 

もちろんこの考え方では、批判の矛先はまったく明確にならない。国家というよくわからない主体の責任をそのまま、国民というよくわからない主体に横流ししているだけだからだ。人格のないなにかから、人格のないなにかへ。非難しにくいものから、非難しにくいものへ。

 

だが興味深いのは。それで本当に、国民のひとりひとりが責任を感じてしまう場合があることだ。

ある講義の記憶

昨日の続きを書くためにいろいろと考えていたら、ふと、大学一年生のときに受けていた講義のことを思い出した。せっかくなので、軽く触れてみることにしよう。

 

講義の主題は、ナチス期のドイツについてだった。当時の特殊な世の中をひとがどう生きたかという、日常の面にフォーカスをあてた講義だったと記憶している。ユダヤ人から見たドイツ、というのがまっさきに思い浮かぶテーマだろうが、中身はそれだけではなかった。うろ覚えだが、もっといろいろな視点――たとえばユダヤ人でない市井の人々や、戦場の兵士や、あるいは収容所の看守がどう考えていたか、などを扱っていたと記憶している。

 

そのなかで、戦場の兵士からの手紙を扱った回があった。ふつうの人々の生活を知りたいのだから、手紙は最高の史料になる。戦場で敵を殺すことについて、そこにはさまざまな考察が書かれている。一般の兵士が感じていたことを知るのに、これ以上のものはない――「手紙を書く兵士だ」という点に、多少のバイアスがかかっていることは認めざるを得ないだろうが。

 

七年も前の講義だから、手紙の詳細な内容は忘れてしまっている。たしか、人を殺しているが命令だから仕方ないのだ、とか、そういうありがちな内容だった気がするが、実際のところは定かではない。だが、それを扱った先生のことばは、強く印象に残っている。「ひとは正当化をする生き物である」ということばは。

 

戦場のリアルは陰惨だ。陰惨、だろう。行ったことがないので正確なところは分からないがとにかく、目を覆いたくなるようなものの前で目を覆ってはいけない、という空間には間違いないだろう。自分もその惨劇に、加担しなければならないのだから。

 

だからひとは自分の行動を正当化する。必要に応じて、どんなことでも正当化できる――そう言い切った先生の姿は、いまでも鮮明に思い出される。思い出されるくらいだから、当時はけっこうな衝撃だったのだろう。ひとの良心こそ当時のわたしは信じていなかったが、論理性のほうは信じていた。そして手紙は、きわめて論理的と呼べるものだった。論理性を失わないままに所望の結論を出すという技術。高等そうなその技術を、普通のひとが当たり前のように持ち合わせているということに、七年前のわたしは驚いたのだ。

 

さて。その考え方はいまでも、わたしが世界を見る目に強く影響している。

 

立てるべき問いはふたつある。ひとつはほかの誰かが正当化をする場合の問いで、もうひとつはわたし自身が、正当化をする場合の問いだ。だれかが正当そうな論理を口にしたとき、それは尊重されるべきだろうか。あるいはわたしがなにかを考えたとき、わたしはわたし自身を、どれくらい信用してあげてよいのだろうか?

 

まあ、答えの出る問題ではない。わたしがあの講義で学んだもうひとつのことは、世の中とはなかなか、一筋縄ではいかないということだ。

論理の万能性

論理的な判断とはよい判断だ、と世間ではよく言われる。直感だけで行動するひとと比べて、すべての行動に理由があるひとは将来的にはるかに大きな報酬を得られる、とひとはみな信じている。論理性への信仰とも呼べる社会現象だ。

 

だがそれは、はたしてどれくらいご利益のある信仰なのだろうか。論理的であろうと志すこととは、はたしてどれくらい、そのひとのためになる態度なのだろうか。

 

今日は、そんなことを考えてみることにしよう。

 

比較のために、まずは対極にあるものを考えてみよう。感情的な判断。後先を考えず、目先の利益だけを追い求めることだと定義されるそれは、論理信者がもっとも嫌うもののひとつだ。すこし考えれば損だと分かる選択に、どうして突き進もうとするのか――たとえばムカつく上司を殴ったり、宝くじを買ったりすることなどが、これにあたる。

 

論理信者たちはこう考える。つねに論理的でありさえすれば、こんな選択は起こりえない、と。上司といざこざがあるとしても、それは間違いなく、殴って解決する問題ではない。それなら殴るのはやめて、他の手段を考えた方がいい。宝くじを買うのは、帰り道の側溝にお札を投げ込むことや、わざわざ課税額を超えて納税するのと同じようなものだ。だからそんなものは買わず、投資信託にでも入れておいた方がいい。

 

感情は諸悪の根源だ。判断に感情が混じるからこそ、ひとは損をする。世の中のほとんどのひとは論理の神を信仰していないから、実際にそうやって損をしている。論理を信仰するわたしたちは、日頃の判断で徳を積み重ねることで、得を積み重ねることができる。最終的には、わたしたちとそれ以外の間には、巨大な利益の溝が横たわっているはずだ。

 

論理信者はそう考える。そう考えるひとを、論理信者と呼ぶことにする。

 

さて。だが論理信者の論理には、もちろん巨大な欠陥がある。それは論理が、いかなる結論でも出しえてしまうことだ。

 

上司を殴ることを正当化する論理。それは間違いなく存在する。同じ空間にいると重要な仕事が手につかないから、しかるべき機関になど頼らず、この手で今すぐに叩き出したほうがいい。あるいは、どうせ辞めるのだし、逮捕されるのも怖くないから、殴らない理由がない。不利益は承知しているが、ここで道連れにしないと、一生後悔するというより巨大な不利益を被ることになる。殴ることは論理的判断の帰結だ。じっくりと考えた結論として、席で待ち伏せして、脳天を叩き割る。

 

論理は結論を問わない。というより、出た結論は受け入れるのが論理的態度というものだ。上司を殴るという一見非合理な行動だって、うまく論理を組立てれば、いくらでも正当化できてしまう。論理的と合理的のちがいが、ここで顔を出す。

 

では、なぜそれでも論理は信仰に値するのか。

 

これまでの議論に反するようだが、それは実際のところ、論理は万能ではないからに他ならないだろう。