反抗心という規範

学生運動に代表されるように、既存の考え方への反発とはいつの時代も、若者の行動の原動力であった。

 

この日記もある意味、そういうものだと言える。わたしの熱心な読者なら(そんなひとが果たしてこの世に存在しているのかはさておき)、わたしが研究職に文句を言うのを飽きるほど聞いているだろうし、だったらはやくやめちまえよ、とまで思っているかもしれない。「若者」としての連帯感、すなわち自分たちこそが新しい時代の標準であるといううぬぼれた自負を毛嫌いするものにとってはすこぶる気恥ずかしいことなのだが、わたしが日頃発露しているそれは、間違いなく反抗心なのだ。わたしの態度が典型的な若さそのものである、というのは認めたくない事実だが、結局のところわたし自身、どうにも否定しえないのである。

 

さらに言おう。若さの特徴のひとつに、若さという概念に対してきわめて保守的であることが挙げられる。すなわち若者は、新しいものはすべて無条件に正しく、古いすなわち粗悪なものはいずれ完全に淘汰される運命にある、と考えるのだ。ものの良しあしに新旧は関係ない、というのがフラットな立場であり、若者は自分たちがそういうフレキシビリティの中にいると信じている。しかし実際の若者は、老人イコール悪という古典的な世代間対立の構図にすっぽりと収まっているのだ。

 

そしてわたしも、その構図からは逃れられそうにない。

 

世代間対立にもいろいろあるが、そのひとつの重要な特徴として、道徳と自由の対立がある。老人は道徳を重んじ、道徳の枷を用いて若者を支配しようとする。若者は自由を重んじ、世界を統べる道徳を見れば、古臭く非合理的だと断罪する。老人の言う道徳が本当に道徳的なのかには議論の余地があるし、若者の言う自由が本当により解放された状態なのかもまた分からないが、少なくともとうの本人たちはその手の神話を信じて、対立というゲームをプレイしている。

 

さて。

 

若者からそうでない何かへの過渡期にあって、わたしにももちろん、道徳のようなものが芽生えている。昨日までに書いていた、研究と勉強の関係性についての話がそのひとつで、わたしは若者的な反抗心を持ちながらも、勉強の大切さについて一家言持ってしまったわけだ。日記にはわたしが考えたことを書きたいから、当然そういう道徳の話とて、書くに値するテーマではある。だがそういうものは説教臭いから、自由に対するわたしの価値観に反するのだ。変な言い方をすれば、反抗心という規範に反する、と呼んでもいいかもしれない。

 

それでも。芽生えてしまったものは仕方がない。わたしもいずれ老人になるわけだし、やがては若者を気にくわない同類ではなく、真なる敵として考え始める日がやってくる。その日のことを考えれば、説教臭くならないためだけに、せっかくこの身に芽生えた道徳を放棄するというのは、少々筋がよろしくない。

 

だからこそ。ひとつの折衷案としてわたしは、老人の口を借りてわたしの道徳を語らせた。反抗心という規範に照らし合わせれば、これでもまだ不愉快なことに変わりはない。

 

だが、それでも。一切の工夫なく、わたし自身のことばとして地の文で道徳を語るのは、やはりまだできそうにない。