見えない穴を見ようとして

わたしはおそらく、人前で話すのが苦手だ。

 

といっても、べつに話すのが恥ずかしいわけではない。委縮して、ことばが出なくなるわけでもない。むしろその逆で、大声で堂々と話すことについて、わたしに不安はまったくない。

 

それどころか、話すのが嫌いなわけでもない。むしろ、わたしは話すのが好きだ。わたしがわたしの考えを書きたいのとまったく同じ原理で、わたしはわたしの考えを話したい。わたしがいいと思ったものを伝えるのは、わたしの喜びのひとつだ。

 

わたしが話すとき、わたしは自分の世界に入っている。そして、自分の世界を語るのは、ものすごく楽しい。それはちょうどこの瞬間、この文章を書く楽しさと同じだ。

 

にもかかわらず、わたしはおそらく、話すのが苦手だ。いや、正確に言えば、聞き手が何を理解していて、なにを理解していないかを知るのが苦手だ。話しているわたしはおそらくわたしの世界に入りすぎていて、聴衆がついてきていないことに気づかないのだ。

 

さて、わたしのなにがいけないのか。その話は数日ぶんの日記になりうるテーマだが、今日は深入りしないことにしよう。今日書きたいのは、わたしの話が、そもそもわたしのことばですらなかった場合の話だ。

 

昨日まで述べてきた通り、わたしはときに、わたしのものでないことばを語らなければならない。たとえば、研究の有用性。わたしの研究が有用かどうかなど、わたしにとってはどうでもいいことだ。だが、だからといって話さないわけにはいかない。世の中には、有用性を重視する人がたくさんいる。そして発表のつつがない進行のためには、わたしはそういう人の機嫌を取らなければならない。

 

というわけで、わたしの発表には、他人事のようなことばのかけらが紛れ込むことになる。そしてそれは、わたしから見れば、いちばんのツッコミどころだ。もしわたしが聴衆なら、わたしはそのことばに納得しないだろう。そしてじゅうぶん賢い人は、わたしのことばが張りぼてだと、すぐに気づくだろう。

 

だからわたしは、そのツッコミどころを補強しようと試みる。ツッコまれないようにわたしは、どうにかその穴を誤魔化そうとする。あるいは、突かれても滞りなく返答できるように、わたしは論理をこねくり回す。

 

だが残念ながらそれは、失敗を約束された試みだ。そこがツッコミどころなのは、わたしがわたしの論理に納得していないからだ。そしてわたしが納得していない以上、わたしは穴を誤魔化しきれない。ましてやその穴をふさぐまともな論理など、もはや言うまでもない。

 

そしてそれでも、わたしはどうにか悪あがきを準備する。

そしていざ、本番に臨むと。

質問は、わたしの予期していなかった方向から降ってくる。

 

わたしの問題は、おそらくこんなところだ。わたしは、聴衆がわたしと同じだと信じ込んでいる。だからわたしは、わたしの目に見える穴をふさぐ。だがその穴はかならずしも、聴衆の目に見えているわけではない。

 

そして聴衆に見える穴は逆に、ときにわたしには見えない。べつに、どちらの目がただしいわけでもない。単に、わたしは聴衆ではないし、聴衆はわたしではないということだ。

 

だがそれでも、穴はふさがねばならぬのが発表というものだ。見えない穴をふさぐというのは無理難題だ――だが、わたしは挑む必要がある。幸いなことにその穴は、見えさえすれば簡単にふさげるだろう。わたしに穴が見えないのは、わたしがその部分に納得しているということだからだ。

 

では、その穴はどうすれば見えるのだろうか?

 

それは、分からない。そんなことが分かれば苦労しない。だからわたしは、冒頭と同じ言葉で、この文章をしめることにしよう。わたしはだからこそ、人前で話すのが苦手なのだ。

語りの場のハードル

ハッタリを語るのは、ハッタリを書くよりもはるかに難しい。

 

わたしはこれまで、何度もハッタリの申請書を書いてきた。大学院の願書や、某予算の選考のために。そんな書類でわたしは、わたしの研究がいかに役立つか、あるいはいかに素晴らしい分野を切り拓くのかを語ってきた。

 

もちろん、わたしはわたしの研究が役立つとも、新たな分野を切り拓くとも思っていない。そんなことにわたしは興味はないし、そもそも、未来を計画するのは好きではない。それでもなおわたしがわたしの研究を賞賛して書くのは、単にそのための欄があるからに過ぎない。

 

当然ながら、わたしはわたしの研究の未来なんて考えない。いつだって楽しいのは、目の前の論文を出すことだからだ。後先考えず、わたしはただ問題を考える。そうして論文が通れば、そのテーマとは、晴れておさらばだ。

 

一応もしかすると、それでも研究の未来は考えた方が幸せなのかもしれない。出した論文の先に次のテーマがあれば、すくなくともわたしは、テーマ探しを一回だけサボれることになる。だがそこにある喜びは、あくまでわたしが楽をできるということだ。断じて、理論を建設する喜びではない。

 

さて、だからといって、わたしが申請書を書けないわけではない。申請書を書くとき、わたしはわたしの脳内をひっくりかえして、どうにかわたしの研究の未来をでっちあげる。未来の予知不能性を盾に取った、素っ頓狂で非現実的で、おまけにご都合主義の未来を。

 

わたしの計画はとんだでっちあげだが、ある意味では、わたしはいちから未来を妄想しているわけではない。わたしの研究はてんでバラバラだから、まずはわたしはそれらをうまくこじつけて、つなぎ合わせる。そしてそのつぎはぎを眺め続ければ、わたしに語りうる未来の姿は限られていることがわかる。その必然性の中に浮かび上がるどうでもいい未来を、わたしはどうにか文章のかたちにする。

 

わたしの研究はランダムだ。そして、わたしの研究の未来とは、そのランダムネスの中に法則性を見出さんとする、統計学上は禁断の努力の結果に他ならない。

 

そしてその法則は、わたしが申請する先という巨大な門に頭をぶつけない程度にはよくできている。わたしにだってその張りぼては、詳しく読まなければそれらしく見えるのだ。

 

さてだが、語るとなると話は異なる。語りたくもない研究計画をわたしが語ったとき、わたしは相手が納得していないと知っている。質問が来たなら、わたしはすべてハッタリだと白状して逃げ出したくなる。なぜならわたしは、わたしの計画の意義が理解できないという相手の立場に、百パーセント同意するからだ。

 

いやそもそも、わたしの計画が有意義だと思わせることじたいが無理な話だ。そのためにはまず、わたしの話を理解させてはならない。理解すれば、無意味だとばれるから。だが、理解させないのもダメだ。それは相手にとって、単によくわからない話に過ぎないからだ。

 

わたしは相手に、わたしの計画を曲解させなければならない。

 

だがどうして、そんなことが可能だろうか? なにせわたし自身でも、自分がなにを語っているのかよくわかっていないのだ。わたしがわかっていることを伝えるのにすら技術と努力が必要なのに、わたしにわからないことをどうして伝えられるだろうか?

 

さて、文句はこれくらいにして、冒頭の問いに戻ろう。なぜ、書くと語るとではこうも異なるのだろう? こう書いてきてわたしは、書くことと語ることのあいだにことなるハードルを設定しているように思えてきた。わたしが書くとき、わたしはわたしの文章の見た目、それっぽさだけを重視していた。だが語ることになった瞬間、わたしは相手を納得させにかかっている。

 

どうしてこうなったのか、それはよくわからない。わたしは語りのハードルを下げるべきだとは思うが、どうすれば下がるのかもわからない。おそらくそれは、一朝一夕で解決する問題ではないのだろう。

 

さて、今日は本当はもっと先まで行けるつもりだった。だからこの文章は、書きたかったところまで行きつかずに中途半端に終わったことになる。だがすくなくとも、詳しく読まなければ、この文章はそれっぽい。というわけで、そのそれっぽい方針にとりあえず従って、明日こそは、語りの問題について書いていくことにしよう。

嘘のばれる詐欺師

わたしは、わたしのことばだけを語りたい。

 

研究は、しかし、わたしのそんなわがままを認めてはくれない。論文のイントロダクションで、あるいは予算の申請書で、わたしは研究の公益性だとか発展性だとかを書かされる。そのどちらにもわたしは興味がなく、したがって、そこにわたしのことばは書かれえない。

 

だがわたしに、その枠を消す権利はない。だからわたしのことばが書けないのなら、わたしのものでないことばで埋めるしかない。わたしが実際に思っているわけではないが、とりあえず、その枠を埋めるのには足る虚構で。

 

もしわたしの研究が先行研究に基づいているなら、わたしには先人の受け売りを語る選択肢がある。公益や発展についてわたしが無関心なのなら、関心を持っているひとに語ってもらえばいいのだ。より正確を期すならば、関心を持っているか、あるいはそのふりをしているひとに。

 

もっともそんなことばは、とうてい納得できるものではない。研究の公益性も発展性もハッタリに過ぎない以上、わたしにそのことばは空虚だ。だが、それはまったく構わない。そもそもその枠は、わたしが空虚だとは思わないことばでは埋められないからだ。

 

あるいは、わたしがいちから、まるきりの創作を語ってもよい。そしてそれは、うがった見方をすれば、研究者として褒められた態度だ。実のところ、わたしがなにを書こうが、ウソにはならない。イントロダクションに書くべきものは、現在の冷静な分析ではなく、好き勝手な未来の予想図なのだから。

 

そしてそれならば、わたしの腕の見せ所だ。じっさいの成果というお題を与えられて、さながら参加者一人の創作コンテストのように、わたしはそれらしき物語をでっちあげる。物語の評価基準はふたつ。面白いかどうかと、わたしの成果と関連しているかどうかだ。

 

さて。では、仮に良い創作ができたとして。

わたしはそれを、自信をもって語れるだろうか?

 

研究において、語りの手段は文章だけではない。学会で、面接で、わたしはわたし自身の口から、わたしのハッタリを語らねばならない。飛んでくる質問の矢を、統一された論理で、即座に打ち返さねばならない。

 

そしてそれは、書面にハッタリを記すこととは本質的に異なる。書面では、ハッタリは通じる相手にのみ通じればよかった。イントロダクションじたいを無価値だと考える同類と、わたしのイントロダクションを信じる馬鹿以外は、統計的小数として切り捨てればよかった。だが話すとき、わたしは目の前の相手を納得させねばならない。

 

そして残念ながら、本当に納得させねばならぬ相手は、おおかたの場合、同類でも馬鹿でもない。

 

だからおそらく、わたしの嘘はすぐばれる。わたしがほんとうは、公益も発展も、まったく理解していないことを。わたしは勝てない戦いはしたくない。だが、戦わないわけにもいかないのだ。

 

わたしはわたしのことばだけを語りたい。だからこそ、わたしは嘘をつくのに慣れていない。きわめて格好悪いことだが、わたしにもっとも不向きな職業は詐欺師だろう。

 

どんな嘘も、語り続ければ真実になる。だからわたしがすべきは、嘘とばれている嘘を貫き通すことだ。わたしにも相手にも、とことん不誠実であり続けることだ。

 

だがいまのところ、わたしにそれはできそうにない。訓練すればできるのかもしれないが、どう訓練するのかもわからない。ひとを好き放題に騙せる人間にはもちろん憧れるが、わたしにその素質がないことだって分かっている。

 

ではどうすればいいのか、それは分からない。ひとつだけ確かなことは、わたしは嘘で勝負しない方がいいということだ。そしてもっとも手っ取り早い対処法は、ハッタリの土俵に引きずり込まれないだけの、客観的な成果なのだろう。

ハッタリと正義

わたしは、わたしのことば以外を語りたくない。

 

最近書いてきたとおり、おおかたの場合、わたしはわたしのことばだけを語る。世の中がこうなる前だってそうだったが、最近ではさらに顕著だ。わたしは、わたしのことば以外を語らねばならぬ相手と、そもそも語り合わなくてよい。

 

だいいちに、初対面の人と語り合う機会はおかげさまでめっきり減った。だから、わたしはわたしのことばが相手の地雷を踏みぬく可能性をあまり考慮しなくてよい。そして第二に、初対面ではないが本音も語れないひととの付き合いは、そもそも避け続けることができる。

 

というわけで、わたしはこの世界に満足している。わたしが腹を割って話し合える相手との関わりをあらかた保ったまま、そうでない相手との関わりを断ってくれる世界に。

 

さてだが、まだひとつ、わたしが嘘をつかねばならぬ領域が残っている。わたしの語りにとって、この世界の最大の欠点かもしれないそれは、ほかならぬわたしの本業の中に潜んでいる。そう、研究である。

 

研究者はつねに、自分の研究の意義を語り続けねばならない。その研究をすると、実世界のなんの役に立つのか。その研究から、なにが生まれることが期待できるのか。もし仮になんの役にも立たなさそうでも、それでも研究者は、それの理論的な重要性を説明せねばならない。たとえ理論的重要性という概念に、わたしを含めただれかが満足すること以上の価値を感じられないとしても。

 

そしてそのどれにも、わたしは興味がない。

 

わたしは、わたしが問題を解く楽しみのために研究をしている。模範的な理論研究者とおなじく、わたしはわたしの研究が現実の役に立つことに興味はない。そして理論研究者の規範から外れて、わたしはわたしの研究がなにかを明らかにすることにも興味はない。わたしの研究の先に見えてくる、素晴らしいかもしれないらしい世界にだって、じつのところわたしは興味がない。

 

わたしと似たような相手に、わたしはそう語ることはできる。だが世の中は、つねにそんなに都合よくはない。論文や申請書に、わたしはそうは書けないのだ。「本研究の成功の暁には、わたしが喜びます」――それはまごうことなき真実で、そして、まちがいなくリジェクトだ。

 

というわけで、わたしは方便を書く。わたしはわたしが書くことばを嘘だと知っているが、本音で申請書は埋められないのだ。わたしはわたしに言い聞かせる、そもそも申請書は、論文のイントロダクションは、嘘の真っ赤さを競う品評会だと。

 

「この文章は嘘です」とことわっておくことすらせず、わたしは堂々と嘘を並べ立てる。そしてわたしは、その嘘に罪悪感を覚えない。その嘘は、誰かの目の前で本音を偽るのとはまったく違う。書類の向こうに座っているのが、もしわたしが大切にしたいタイプの人間であるならば、そのひとは、その欄は嘘を書く欄だと知っているはずだからだ。

 

ある意味ではその書類は、小説にも似ているかもしれない。嘘だと書かなくても、申請書は嘘だ。そして「この物語はフィクションです」と書かなくとも、フィクションはフィクションとして受け取ってもらえる。

 

そう考えれば、わたしは研究の嘘を楽しめるのかもしれない。とりわけわたしが、面白い嘘を書けた場合には。その嘘が巧妙だと、読者に思ってもらえたときには。

 

そしてその楽しみは、案外研究者の道を外れていないのかもしれない。嘘は、語り続ければ真実になる。そしてわたしに、その努力をする義務はない。真実にするのは誰でもいいのだ。

 

もしかりに、どこかのバカがわたしの方便を真に受けて、おおまじめに実現に向けて動いてくれるのなら。

 

わたしのその気がなくても、研究者の世界では、わたしは正義だということになっている。

嘘はついてない

わたしは、つねにわたしのことばだけを語りたい。

 

わたしのことばを語るためには、つねにわたし自身に耳を傾けている必要がある。他人のことばをわたしは受け入れることもあるが、それを発言するのはわたしが納得してからにするべきだ。わたしは、他人のことばを繰り返すオウムにはなりたくない。

 

だからわたしの行動の根拠は、つねにわたしの感情や理性によるべきだ。まわりの空気に、わたしは流されてはならない。わたしの置かれた立場に、わたしの意見は曲げられてはならない。あるいは、すわりのよいことばの魅力に、わたしは屈してはならない。

 

だが現実はそうはいかない。わたしがいかにまわりの空気に流されたくなかったとしても、それはいまこの場の空気を読まなくてよい理由にはならない。わたしが怒られているなら、火に油を注ぐような真似はよすべきだ。その場にぴったりなことばを見つけたならば、わたしの本来の葛藤をいったん無視して、当意即妙にそれを語って見せたほうがよい場面だってある。

 

そんなときわたしは、どうにかわたし自身に大きな嘘をつかないように努力する。わたしが空気を読んでいるとき、それはたいていの場合、中身のあることを発言しないことで実現される。わたしはたしかに本当のことを言ってはいないが、嘘だってついていない。そしてその場がひとしきりおさまったあと、もし誰かに正直な感想を話せるのなら、それがわたしに達成できる最大限の成功というものだろう。

 

怒られているときだってそうだ。といっても、わたしが怒られるときはたいていわたしに非があるから、そもそもわたしは後ろめたくて、あまり大したことを言う気にはならない。だがそれでもわたしは、自分が思ってもいない反省を口にしたりはしない。不本意な、相手の思い通りの答えを返すより、物分かりの悪いふりをして耐えることをわたしは選んできた。

 

その場にちょうどよいことばの誘惑にかられたとき、わたしはたしかに、本心とは異なるなにかを言っているだろう。だがその違いは、いつも些細だ。他人の口を経由すれば、わたしのことばはそう伝わりそうなくらいに。それでも不安ならわたしは、本心と異なる旨の補足を入れている。知らんけど、そんなことばで。

 

このようにたいていの場合、わたしはわたしを、本心ではない何かを語ることから守り続けられる。最初のふたつの例では、沈黙によって。最後の例では、ときおり笑いによってかき消される補足によって。わたしはすくなくとも、わたし自身に嘘をついてはいないつもりだ――わたしが許容できる、ほんのわずかな常識と脚色を除いて。

 

本心を語るのは困難が伴う。だが本心を語ることと同じくらい、本心以外を語らないことは重要だ。わたし自身を、わたしは本心を分析することで愛してきた。わたしに似ているひとたちと、わたしは本心を語ることで距離を詰めたつもりだ。そしてその人たちを、より重要にはわたしを、幻滅させてはならない。

 

さいわい今のところ、わたしはそれでどうにかなっている。わたしは相当に本心を語りたがるほうだから、やや語らないくらいでもちょうどいいのだ。だがそれでも、わたしは語る機会がほしい。だからこそわたしは、こんな日記を続けてきたのだ。

自分語りの真実

わたしは、つねにわたしのことばを語っていたい。

 

おおくの場合、わたしはわたし自身に正直なことばを語る。すくなくとも、そうあるように気を付けている。どんな話題に関しても、理想を言えばわたしは、わたしが腰を据えて考えて出した結論だけを語り続けていたい。

 

もちろん、現実にそんなことは不可能だ。わたしは気になったことの多くに結論を出そうと試みているが、世界はわたしがすべて考え尽くせるほど小さくない。そして目の前の相手は、わたしがこれまで考えようともしなかったことに関して、大真面目に語ってくるかもしれない。

 

そんなとき、わたしは答えに詰まる。これまで考えもしなかったことなのだから、仕方のない話だ。そしてひとしきり会話が終わり、相手と別れるとわたしは、満足に答えられなかったその話題について考えてみる。

 

経験上、その答えを紡ぎ出すのは難しくない。わたしは簡単な結論を出すと、次の瞬間にはみずからの即興性の欠如を呪うことになる。すなわちわたしは、そんな簡単な答えなら会話中に導き出して、即座に語ってしまえても良かったかもしれないのに、と後悔するのだ。

 

さて、当時は悔しいが、その話題はわたしのためになる話題だ。わたしは、わたしの気になるすべてを考えたいと思っている。そして会話の相手は、わたしにそんな話題を提供してくれた。だからその会話は、最終的には、わたしをひとつ賢くしてくれるはずだ。

 

いまの例は建設的だ。だが、わたしがわたしのことばを語りにくい状況には、もっと非建設的なものある。たとえば、わたしの意見と異なる主張を、相手が声高に述べているとき。わたしがわたしの意見を言えば、その場はとても険悪になるだろう。世界はわたしを中心にまわっているとわたしは真剣に思っているが、それでもわたしは、その場の雰囲気というものを完全に無視するわけではない。

 

そしてそんな意見対立の場で、わたしの意見はたいてい極論だ。帰無的で、常識はずれで、非道徳的だ。だから、わたしはよりいっそう、戦いを仕掛けにくい。その戦いは、どうやっても無謀な戦いだからだ。

 

というわけでわたしは、自分の考えに対立する考えに相槌を打ち続けることになる。「そんな考えを内面化出来たら苦労しねぇよ」という思いを心に秘めて、わたしはあいまいに、相手のことばの矢をのらりくらりと避け続ける。「そういう考え方もありますね」などのことばで最低限の相対性を担保しながら、わたしはまわりのひとが、相手の単純な正義の矢に撃ち抜かれる、あるいは撃ち抜かれたふりをするさまを、ただ指を咥えて見ている。

 

もっともわたしだって、その正義の側にもたくさん立ってきたのだろう。誰しも、自分の思い通りになった経験よりならなかった経験の方をよく覚えているものだ。だが思い通りにならない苦しみを知っているからと言って、それは相手の思い通りにしてやる理由にはならない。

 

というわけで、現実のわたしは、かならずしもわたしのことばを語れるわけではない。いま挙げた以外にも、そんな状況はいくつも存在する。わたしはときに感情的になって、こじつけの過ぎる嫌味を言う。雰囲気に流されて、軽薄な煽りを入れる。わたしはわたしの立場のために、無意味なものを有意義だと言い張らされる。わたしにはときに発言権がない。他にも思いついた気がするが、忘れてしまった。

 

外から見れば、わたしのことばとそうでないものは区別がつかない。だからわたしは一層、わたしのことば以外を語りたくはない。わたしをありのままに知って欲しいとは言わないが、すくなくとも、知ろうと思えばそうできるだけの判断材料をわたしは提供しつづけたい。

 

というわけで、わたしはこの日記を書いている。正確には、日記を書き始めてからわたしは、じぶんに正直であることを目指してきた。わたしの書くことはその日の気まぐれで変わるから、各々の記事は、かならずしもわたしをその通りに伝えないかもしれない。だがすべてを合わせれば、わたしの姿が統計的な真実として浮かび上がってくるとわたしは信じている。

行き過ぎた摂動の行先で

わたしは、わたしを分析する。この数年間、わたしはそうやって生きてきた。

 

とはいえ、わたしを定義づけるのはその分析結果ではない。わたし自身に分析されてもされなくても、わたしはやはりわたしだ。わたしはわたしに興味があるが、たとえまったくの興味がなくても、わたしがここにいるという事実にかわりはない (はいそこ、揚げ足を取らない)。

 

だからもしわたしの興味が、いまこの瞬間にはじめて発現したものだったとしても、やはりわたしは、わたしを同じことばで評価するだろう。わたし自身の分析にじゅうぶんに慣れるだけの時間と、その間不変でいられる強固なわたしが存在するならば。

 

だが残念ながら、わたしは不変ではない。そしてわたしが変わる一番の原因こそ、ほかならぬ自己分析じたいにあるように思う。だからわたしがもし、わたしをいちから分析しなおすならば、分析されたわたしはもはや、現在のわたしとは程遠いだろう。

 

では自己分析がなければ、わたしは一定なのか。厳密に言えば、もちろん答えはノーだ。わたしは外界に触れ、外界のあらゆるものがわたしを変える。いかに変わり映えのしない生活を送っていても、今日のわたしは昨日のわたしとは異なる。今日をいかに無為に過ごそうが、それでも明日のわたしは別人だ。

 

だがその論理は厳密すぎる。わたしの今日の目的は、自己分析がどれほどわたしを変えるのかを語ることだ。そして、分析がわたしをどれほど変えるのかを見積もるためには、わたしの自然な変化量の絶対値ではなく、自然変化の量と分析による変化量とを比較して語らなければならない。

 

そしてわたしは、わたしを変える原因のほとんどが、絶え間ない自己分析にあると思っている。

 

ことばの力は偉大だ。わたしがひとつの、わたしをよく表していると思われることばを思いついたとする。さすればわたしはそれを気に入って、頭の中で何度も反復するだろう。ちょうどここ数日の日記の、わたしはわたしを分析するのが好きだ、という書き出しのように。

 

反復したことばは、しだいにわたしの脳に刷り込まれる。そして次第に、ことばは真実になる。わたしはあたかも、最初からわたしがそのことば通りであったかのように錯覚する。だが実のところ、そのことばは、わたしの気まぐれがはじき出した、その日のわたしの分析に過ぎないのだ。

 

わたしは気まぐれだ。おそらく、すべての人類は気まぐれだ。わたしの分析は、そんなその日の気まぐれに影響される。そしてたまたま、その日がことばになる日なら、わたしはその日の気まぐれの方向におおきく引き寄せられることになる。

 

日々の気分は些細だ。だがその日、わたしがたまたまことばを生み出してしまったなら。

その日の気分は、わたしの方向性を決定づけるターニングポイントになってしまう。

 

それは恐ろしいのかもしれない。わたしの自己分析はもはや本能だが、それでもなお、その本能を矯正するべきな気もしてくる。わたしはわたしのターニングポイントを、管理できた方がいいのかもしれない。ランダムな気まぐれが決定づけるランダムな人生は、まったく良いものとは言えないかもしれない。

 

だがわたしにはいまいち、その恐ろしさがピンと来ない。わたしがランダムネスの帰結だろうが、別にそれでいい気がする。ではその鈍感さは、どこから来るのだろうか?

 

それはおそらく、わたしが求めているのは、べつによりよいわたしなどではないからだろう。

 

わたしの理想のわたしとは、わたしのことをより知っているわたしなのだ。