新規のエミュレータ

わたしは自分を理解したい。そして、自分を理解するのと似たような方法で、他者をも理解したい。

 

わたしがしたいのはわたしの、あるいは他者の、精密なエミュレータをつくることだ。わたしの理想的な姿は、未知の状況で、誰がどうふるまうかを完全に予測できることだ。もしその場に、わたしがエミュレートできる複数のひとが並んでいるなら、彼らの会話を完全に再現できることだ。

 

もっとも、それはわたしが未来予知能力を手に入れたいということではない。他者を理想的にエミュレートできたところで、わたしが予測できるのは所詮他者だけだ。わたしの理想形態は、自然現象も、誰かの予定も、わたしが知らない他者の行動もエミュレートできない。そしてそれらが未来を決定する重要な要因である以上、他者理解だけでは未来など予知できない。

 

だが、そんな分かりやすい幻想を否定してなお、わたしの理想は達成されえないだろう。他者とは、わたしがエミュレートできるほど簡単なものではない。理想はあくまで理想、到達できるほど甘くないのだ。

 

さて、だがもし他者が、エミュレート可能だったとしたら?

エミュレータの中の他者こそが、他者の真の姿だったら?

 

わたしが他者の動く通りにエミュレータを動かすのではなく、エミュレータの言う通りに他者が動いてくれるのなら?

 

わたしは、その場を支配できるだろう。

 

そんな場はもちろん、現実には存在しない。わたしが言う通りに動いてくれる他者なんて、都合のいいものは。

 

もっともその他者は、わたしが望んだとおりに動いてくれるわけではない。そうではなく、わたしが予測した通りに動くだけだ。だがそれでも、それが都合のいい他者であることには変わりないだろうし、そして存在しないことにも変わりないだろう。

 

だが創作の中には、そんな都合のいい他者が存在する。というより、創作のすべてが、そんな他者で構成されている。創作の中の登場人物は作者ではないから、すなわち作者にとっての他者だ。そしてその正体とは、作者の中のエミュレータにすぎない。

 

キャラクターのモチーフが作者自身だったとしても、状況は同じだ。作者は作者自身を、物語の中の環境に実際に置いているわけではない。かわりに作者は作者自身を、物語の中でエミュレートしている。だからどちらにせよ、創作とは、エミュレータを動かしてみるいとなみだろう。

 

というわけで作者がすべきは、より高精度のエミュレータをつくることだろう。その作業は、キャラクターの設定と呼ばれる。作者はいかにしてか、無からエミュレータを作り出す。そうしてはじめて、物語を動かせる。

 

エミュレータの作り方には、おそらく、決まったコツはない。人によっては、履歴書のようなキャラクターの経歴から、エミュレータを理詰めで設定できるかもしれない。物語上のいくつかの要請から、キャラクターを彫り出せるのかもしれない。あるいは、ぼんやりとしたままのエミュレータを繰り返し動かしてみて、そのパフォーマンスを改善していくのかもしれない。

 

現実の人間からエミュレータをつくりたいのと同様、わたしは、無からエミュレータをつくる能力をも手に入れたい。では、わたしにとっての、そのアプローチは。

 

それはおそらく、わたしがもっとも慣れている方法がいいだろう。幸いわたしは、それを訓練できる趣味を、すでにひとつ持っている。そう、わたしがわたし自身をエミュレートするのとまったく同じ方法で、わたしはキャラクターをエミュレートすればよいのだ。

他者理解の最高到達点

わたしは、わたしを理解するのが好きだ。

 

世の中には、未知のものがたくさんある。そんなものに触れたとき、ひとはしばしば、自分でもとうてい予想できなかった行動をする。そしてそのとき、ひとは初めて、自分の知らなかった自分自身の姿に直面する。

 

だがその姿は、ほんらいその人のなかにあったものだ。ひとに新たな姿を見せてくれる予想外の事件は、べつにひとを瞬時に作り替えているわけではない。ただその特定の、これまでにたまたまあらわれてこなかった側面を、ただ明らかにしてくれるだけだ。

 

だから原理上、予想外の事件などなくても、わたしはわたしの未知の一面に気づけるはずだ。わたしはわたしであり、逃げも隠れもしない。わたしの姿をよりよく知るためにわたしがすべきことは、ずっとここにいるわたしを、よりつぶさに見続けることだ。断じて、予想外の事件を待ちわびて日々を過ごすことではない。

 

というふうに、わたしはわたしを多角的に理解したい。未知の事件にあたってわたしがどう行動するのか、わたしはあらかじめ把握しておきたい。わたしはわたしの、完璧なエミュレータを手に入れたい。そしてわたしは、わたし自身を完璧に支配したい。

 

そしてその欲求はどうやら、わたしに対してだけ向けられたものではなさそうだ。

 

わたしはおそらく、他人を理解するのが好きだ。だが他人は、わたしの理解を真に助けてはくれない。他人はわたしとちがって、ありのままのすがたをわたしにさらけ出してはくれないからだ。もしわたしが、誰かひとりだけを理解できればそれでよいのなら、わたしはわたしのことだけを考えて満足するだろう。どう考えても、それが一番簡単だからだ。

 

だがわたしの好奇心は、そんなに限定的ではないようだ。わたしはわたしのエミュレータだけではなく、他人のエミュレータも手に入れたい。目の前の状況で他人がどう行動するのか、じっさいの行動を見るまえに言い当てたい。わたしは、他人をも完璧に支配したい。

 

そして意外にも、その目標は無謀でもないのかもしれない。

 

たしかに他人は、わたしの見えないところでいくらでも行動している。だから、そのひとの本当の姿を、わたしが理解するのは難しいだろう。だがそれは、他者理解が困難な理由にはならない。わたしが理解するべきは、じっさいには、他人の真の姿ではないのだ。

 

他者理解の最高到達点はおそらく、その人の内面を完全に把握することではない。誰にだって、絶対に表に出せない姿は存在する。そして表に出ない以上、わたしは絶対に、その姿を知ることができない。

 

だが原理上、エミュレータはその姿を知る必要はない。表に出ない姿は、エミュレートしようがないからだ。仮にできたとしても、答え合わせのしようがないからだ。

 

というわけで、わたしは他人の、表に出ている姿を分析したい。他人の外面をあらわす、もっとも核心を突いたことばを見つけたい。他人が事件に巻き込まれたとき、わたしにどう行動してみせるかを言い当てたい。他人のことを、それで分かった気になりたい。

 

そしてそれが、望むべき最大のものだろう。わたしから見れば、わたしと他人とは、おそらく本質的に異なるのだ。

セルフ・エミュレータ

わたしは、わたしについて考えるのが好きだ。その趣味が高じて、わたしはこんな日記をつづけてきた。

 

といっても、わたしはわたしが好きなわけではない。分析において、自己肯定はただ、わたしの視野を狭くするだけだ。わたしはいまのわたしを、絶え間ない現状の肯定に基づく存在だと分析しているが、すくなくともその分析じたいは、自己肯定に基づいてはいないだろう。

 

だからといって、わたしはわたしを嫌いなわけでもない。自己肯定とおなじく、自己否定も分析の邪魔だ。わたしが好きなのは、あくまでわたしが何者かを考えることだ。わたしはわたしを、肯定も否定もしない。わたしはただ、観察しているだけだ。

 

せっかくなので、わたしを分析するわたしについて考えてみよう。まったく禅問答のような導入だ。そうでなければ、何かの構文に機械的にわたしを代入しただけの、よくある意味のないテキストだ。だがとりあえず、やってみることにしよう。

 

ひとつの分析では、わたしは人間観察が好きなのかもしれない。分析するのは、べつに誰でもいい。わたしはわたしを肯定も否定もしないから、すなわち、わたしだって本質的にはひとりの他人なのだ。

 

だが他者は、そうつぶさには観察できない。他者の内面は、残念ながら、わたしに直接見える形では存在しないからだ。わたしが見られるのは、他者の内面が反映されているらしき、具体的な行動だけ。そしてそれすらも、彼らがどう見られたいかに大きく歪められている。

 

そして、ただ人間を観察したいだけなら、もっといい対象がいる。その完璧に都合の良い彼はなんと、内面をつねにわたしにさらけ出している。それも、二十四時間ずっとだ。はたしてその彼とは。もちろん、わたし自身だ。

 

とはいえやはり、わたしは他人だって分析する。情報を得にくいからといって、わたしは、他者理解を完全に諦めているわけではない。もっとも、そのいとなみは、いわゆる「ひとの気持ちを考える」こととはだいぶ異なるだろう。なぜなら、「ひとの気持ちを考える」と言ったとき、そのことばは言外に、「そのひとが心地よくなるようにふるまう」という意味を含んでいるからだ。

 

他人を観察する悦びは、他人の助けになることではない。その他人の思考を読み、行動を予測し、次に何を言うかを完全に言い当てることだ。その他人の特徴を捉え、性格を把握し、より迫真のモノマネに成功したときだ。感情の動きを掌握し、特定の方向に誘導し、最高に鋭いことばの一撃を相手の心に突き刺したときだ。

 

そしてそれはそのまま、自分を観察する悦びでもある。わたしが他者をわたしのなかでデモンストレーションしたいのと同様に、わたしは自分自身のモデルも欲しいのだ。観察者としてのわたしは、わたし自身をより正確に近似し、エミュレートし、わたしならどう行動するかを、実際に行動することなく言い当てる。

 

観察するわたしは、そのエミュレータの性能に期待している。観察するわたしは観察されるわたしを、完全に支配しようともくろんでいる。あるいは、観察するわたし自身を。そして、それを可能にするだけのデータは、おそらくすべて、わたしのなかにある。

嘘と真実の波間で

ここ数年間ずっと、わたしはわたしに興味がある。

 

その興味は、じっくりとした積み重ね式のものだ。それは基礎科学の研究者がひとつの「なぜ」に向き合うのにも似て、わたしの心の中に、たえず形を変えながら存在し続けている。じぶんの研究にこそその種の興味は持てそうにないが、わたしはそのかわり、わたし自身を落ち着いて研究している。

 

さて、わたし自身に関する研究には、数学の研究とはいくつか異なる点がある。昨日はその一点について触れたが、それは、わたし自身についての問いにはすぐに答えを出せる点だ。数学と違って内省に証明は必要ないから、答えの質さえ問わなければ、わたしはわたしをいかようにも説明できるのだ。

 

そうして得られた答えは、的を射ていることも射ていないこともある。わたしはこの日記にそんな答えをたくさん書いてきたが、それらの質はピンキリだ。なにせ、わたしは数時間という短い時間で、わたしを分析して文章にしようとしているのだから。

 

というわけで、わたしはわたしの分析を鵜呑みにはできない。それはあまりにも危険だ。本当のことを言えば、わたしには日記を読み返す作業が必要かもしれない。そして、どの日のことばが真実でどの日のことばが大嘘なのか、しっかりと吟味する必要があるだろう。

 

だがわたしには、そんなことはできない。わたしにそんな気はないからだ。正確に言えば、わたしは、わたしがわたしに関して行ったある分析を信じている。わたしが、やる気の出ないことを絶対にできない人間だという分析を。

 

というわけでわたしは、どの分析が真実に近かったのかは分からない。もっと悪いことには、わたしは過去の分析結果を完全に忘れているかもしれない。確かにわたしは、わたしに関しての分析を、日記のかたちでつぶさに記録に残してきた。だがせっかく残した記録だって、読み返されなければないのと同じなのだ。

 

だがそれでも、わたしは内省の力を信じている。真実か嘘かにかかわらず、わたしを変えてはいると確信している。より正確にはわたしは、わたし自身を分析するという行為自体が、わたしの姿をすこしずつ動かしていると分析している。

 

たくさんの分析を集めたところで、それが統計的に真実に近い保証はない。だが真実だろうがそうでなかろうが、分析結果はわたしを、わたしが次に考えることを変えてゆく。だから、仮に分析した時点で真実でないとしても、分析によってそれは、すこしだけ真実に近づくのだろう。

 

そしてだからこそ、分析は楽しいのだ。わたしの分析は、不正確かもしれないがすくなくとも真摯なつもりで、わたしを望む方向に変える意図はない。だからわたしは分析によって、わたしが意図しない方向へと変化してゆく。

 

もしわたしが完全にソリッドな存在で、わたしの分析によってまったく変化を遂げないのならば、わたしは変わり映えのないわたし自身に飽きていただろう。だがわたしは変化する。嘘と真実の波間を、わたしはゆっくりと漂うのだ。そして、漂うものを追うのは、楽しい。

 

それこそ、わたしがわたしにこれまで興味を持ち続けられた理由かもしれない。

答えを急ぐこと

昨日は、わたしの好奇心の性質について書いた。それはとても気まぐれで、長続きしないものだ。そしてそれは、世の研究者たちが言う、研究を前に進めるための好奇心とは似て非なるものだろう。

 

さて、そんなわたしにも、長続きしているものがある。たとえば、この日記。半年以上にわたってそれなりの労力を注げる日課は、なかなかに珍しいものだ。とくに、続けることそれ自体への報酬、すなわちログインボーナスすらないとあっては。

 

長続きの理由は、わたしのわたし自身への興味だろう。わたしは内省が好きで、数年前からかなりの時間を、自分が何者かを知るために費やしている。それについて毎日文章を書いているのはここ半年のことだが、これらの文章の中身は、じっさいは数年間にわたる積み重ねに基づいているのだ。

 

そして、その積み重ね的な興味こそ、研究者然とした、一貫した好奇心なように思われる。

 

「わたしは何者か」という、わたしの常に考えている問い。しかしながらその問いは、いくら考えようが、「わたしは何者か」以上の解像度を持つことはない。探究を航海にたとえるならば、わたし自身という海では、信頼できる羅針盤はない。

 

にもかかわらず、わたしはわたしについて考え続けてきた。数学の研究では耐えきれないほどあいまいな問いに、途方に暮れるほど何もない大海原に、わたしは数年にわたって、真正面から立ち向かってきた。いったいどうして、わたしにそんなことができたのだろうか? こんな気まぐれなわたしに?

 

説明はいくらでもできるだろう。例によって、説明とは自由すぎるものだ。そして普段なら、わたしはそのいくつかを挙げてみて、その中のどれが正解なのかはわからないと書いて文章を締めている。あるいは、それらの複雑な絡み合いこそが真実だ、と書いて、わたしはわたしを誤魔化している。

 

だが今回は、もっと明確で、自己言及的な正解があるように思う。すなわち、わたしが考え続けられる理由は、理由がいくらでも考えられるということじたいに潜んでいる。

 

そう、数学についての説明と違って。

わたしについての説明は、いくらでも紡ぎだせるのだ。

 

どんな問いにも、わたしは答えを急ぐ。早く答えを出さなければ、その前にわたしは興味を失ってしまうからだ。だが数学では、どんなことも証明される必要がある。答えを求めれば答えが見つかるほど、数学は自由でも簡単でもないのだ。

 

反面、わたしは自由だ。わたしについての説明に、客観的な証明は必要ない。わたしについて理解したければ、わたしが納得できる説明をひとつ挙げればいいのだ。さらに言えば、場合によっては納得すら必要ないかもしれない――わたしに関して皮肉のひとつでも言えれば、とりあえずそれは、答えのひとつなのだ。

 

もちろん、答えには質の違いがある。急いで出した答えは、しばしば的を射ていない。ときには、間違いだと断言できる答えが出て、だがなぜか納得した気になっていることすらある。この日記こそ、数時間で急いで出した答えのはきだめだから、過去の文章を漁ればそんな例はごまんとあるだろう。

 

そしてもちろん、答えの質は高い方がいい。だがわたしには、上質な答えだけを一心に求める根性はないようだ。そしてその根性こそ、科学者たちの言う、一貫した好奇心というものなのかもしれない。

 

つまるところ、わたしが好きなのは、答えを出すという行動それじたいなのだ。

気まぐれな好奇心

自然科学を前に進める力は、好奇心だ。

 

判で押したように、著名な科学者たちはそう言っている。

 

すくなくとも、メディアはそう聞こえるように、発言を切り取っている。あるいはツイッター論客たちは、この時期がくるごとにそういうことばをありがたがって、みずからの主張の出汁として使っている。日本の科学政策を、ただ非難したい一心で。

 

さて、だがその好奇心というものは、少々むずかしい概念なようだ。というのも、わたしが好奇心だと思っているわたしのなかの感情と、世に言われている好奇心は、深いところで異なるように思われるからだ。

 

好奇心を定義しよう。世に言われる好奇心とは、興味を持ったなにかを、腰を据えて考え続けることだ。好奇心旺盛な科学者たちは、ただ己の知的興奮のみを求め、世の、自然の、数式の仕組みを解明してゆく。

 

そこにはひとつの、れっきとした方向性がある。ただひとつの「なぜ」が、数十年の研究のじゅうぶんな動機だ。科学とは積み上げるいとなみで、科学者は、みずから明らかにしたなにかをつかって、次の何かを明らかにしようと試みるものだ。

 

それを一貫した好奇心と呼ぶなら、わたしのは言うならば、気まぐれな好奇心だ。わたしは身の回りの様々なものに興味を持つが、なにに興味を持つかはその日の気分による。わたしはじつにたくさんの「なぜ」を問う。だがその「なぜ」は、「なぜ」のままでも構わない。問いを出せれば、わたしはそれで満足なのだ。

 

科学が問いに答えるプロセスは煩雑だ。数学では、わたしたちは定理の正しさを示すために、厳密な証明を書かなければならない。実験科学が事実を示すためには、実験設備を用意し、実験を繰り返し、統計的に正当化可能なかたちでデータを処理せねばならない。人文科学に関してわたしは明るくないが、憶測では、おおくの科学者が幾度もの議論を積み重ねて初めて、ひとつの科学的態度が生まれるのだろう。

 

そしてわたしの好奇心は、そのプロセスに堪えられるほど長続きしないだろう。

 

だが、そんなわたしにだってできる研究はある。わたしの気まぐれな好奇心は、たまにちょうどよい問いを見つけてくれるからだ。すなわち、すぐには答えが分からないほどには難しいが、わたしが飽きる前に解ける程度には簡単な問いを。事実わたしはそんな問いを見つけて、すでに何本かの論文を出している。

 

そして、論文は論文だ。一貫した好奇心からくる研究に比べて、わたしはわたしの研究を悪いとは思わない。よい研究とは、わたしがよいと思う研究だ。そして、わたしが読んでおもしろいと思う論文は、聞いて面白いと思う発表は、理解するための根気の足りる研究は、どれも誰かの気まぐれから生じたような見た目をしている。

 

気まぐれな研究が世界に必要かと言われれば、それはわからない。だがわたしは、研究の必要性には興味はない。世界がどうあれ、わたしはわたしがよいと思う研究をする。一貫したひとたちが快く思わなかろうが、わたしはわたしの気まぐれな感性を信じるつもりだ。

 

そして、自分への信頼というその一点だけは、一貫したひとたちとわたしで共通なはずだ。

思い付きを書き留める

世の中に表現形態はたくさんあるが、もっとも論理的な形態は文章だろう。

 

文章には、およそことば以外のものはなにもない。文章には絵画のように、一目でひとを釘付けにする模様の鮮やかさもない。文章には音楽のように、無意識のうちに身体のすみずみにまで行き渡るほどの侵襲性も、普遍性もない。文章にはゲームのように、ひとに試行錯誤させ、楽しく遊ばせるだけの発展性もない。

 

文章を摂取するプロセスは複雑だ。文章を読むとは、外部的には、ただの文字の羅列を順に目でなぞってゆくことだ。だがわたしたちの脳内では、その文字の羅列はことばとして解釈され、それらのつながりかたが理解され、文章として解釈されている。

 

さらに脳は、その文章がなにをあらわすのかを理解し、みずからの経験や知識とつなぎ合わせ、ときには鮮明な情景をもはっきりと浮かび上がらせる。もともとがただのインク染みの羅列だったことを考えれば、これはおそらく、ほとんど奇跡に近い現象だろう。

 

さて、そのプロセスは細部まで順序的だ。なにかの情景の細部を伝えたければ、書き手はそれを書くしかない。その情報がさして重要ではなかろうが、それが紙面を視覚的に占める割合は、ほかの重要な情報と同一だ。そしてどんな情報も、文章全体の流れの中に、一次元的に配置されなければならない。絵画のように、隅っこにこっそりと書き込んでおいて、受け手が無意識に知覚してくれることに期待することなどできないのだ。

 

というわけで、わたしたちは書くとき、順序を考えなければならない。文章は一次元的だが、文の構造は必ずしも一次元的ではないからだ。たとえば物語では、同時に複数個所で事件が起こっているかもしれない。論文で主定理を証明するときには、著者はふたつの独立した補題を示し、それらを組合わせるかもしれない。さらにいえば、文章は必ずしも演繹的ではない――まず結論を書いて、そうして理屈を書くのも、立派な文章執筆のテクニックだ。

 

だからわたしたちは、かならずしも順番に書いていく必要はない。じっさいわたしは、論文のイントロダクションは最後に書く――その方が書きやすいから。だがこの日記は、わたしはいつも順番に書いている。その方が、書きやすいから。

 

文章は生き物だ。せっかく全体の構成を考えても、その方向に進んでくれないこともある。そんな文章の中で、わたしがもともと書こうとしていたのは冒頭だけだ。そして文章とは、基本的に最後が重要だから、その場合もはや、書きたかったことはなにひとつ残っていないことになる。

 

さて、今日もそうだ。この文章はほんとうは、もっと自虐的なものになる予定だった。具体的な姿は明かさないことにするが、わたしはわたしが書こうとしていたことを、とにかくまったく書けていない。

 

だがおそらく、それでいい。書こうとしているものは、いずれ書けるはずだ。これは日記、今日考えたことを書き留めておくためのものだ。だから書きたいことを書くより、べつの計画の中でふと思いついたことを書き残すことのほうが、おそらくよっぽど価値あるいとなみなのだ。