約束と利益と侵害と

約束とは、互いの自由を差し出す行為である。

 

たとえばわたしが、そうだなぁ、創作の世界でよくあるように、友達と映画を見に行く約束をしたとしよう。そんな約束はステレオタイプで、現実にはなかなか存在しないが、これはわたしの感想文なのだからどうでもいいだろう。とにもかくにもわたしは、その約束にその日の自由を奪われることになる。

 

もっとも、約束がなくとも、わたしに別の予定が入ることはまれだ。だからじっさいには、その不自由はそう不自由でもないのかもしれない。だがそれでも、不自由は不自由だ。そもそも、予定があるということじたいが不自由なのだ。

 

そしてわたしは、なんであれ不自由は嫌いだ。わたしは映画という、プロの手で二時間に圧縮された素晴らしいコンテンツを摂取する権利を投げ捨ててでも、たいして更新もないツイッターに張り付いて二時間を浪費することを是としてきた。惰眠こそが最高の快楽であると、信じて疑わずに生きてきた。

 

そんな最高にリベラルなわたしは、だからこそ約束は嫌いだ。予定は嫌いだ。たとえ信頼に足る相手でも、約束はしたくない。たとえやってみれば楽しいと分かっていても、それでも予定はない方がいいのだ。

 

さて、だからといって、現代は約束なしでは済まされない。残念ながらわたしは無力で、すべての活動をやりたいときに設定するだけ権力もなければ、ひととの関わりを絶って野生の中で自給自足するだけの根性もない。だからわたしは、だれかと約束し、予定を合わせなければならない。

 

おおくの約束は、心地よいものではない。わたしは相手に自由を奪われているし、相手はわたしに自由を奪われている。その約束でわたしは、わたしが奪われた自由以上のものを得られるのだろうか? その約束で相手は、わたしが自由を奪うのに足るだけの利益を、よろこびを得られるのだろうか?

 

そして、そう確信させてくれる約束だってまた、ある。

 

世の中はゼロサムではない。直観に反することだが、互いがある行動をとれば、互いが得をするシチュエーションもあるのだ。そしてそんな約束は、わたしにとって心地よい。わたしは確実に、得をすることができる。そして、それはけっして、わたしの自分勝手などではないのだ!

 

世の中には、わたしほど自由に執着しないひともいる。すくなくとも、わたしの愛する非合理的な自由は、そう好まれる自由ではないだろう。言い換えれば世の中には、約束を好む人だっている。

 

だからわたしが約束をするとき、相手の都合はそこまで重視しなくても良いのかもしれない。わたしはわたしの利益のみを根拠になにかを提案し、相手の利益に関しては、相手が要求を呑んだという事実をもって満足してしまってもいいのかもしれない。

 

だがそれでも、わたしは相手の都合を考えてしまう。相手も得をするような提案以外は、提案する前に棄却してしまう。そう、利害の一致こそが、いちばん心地の良い信頼関係なのだ。

 

さて、利害の一致の心地よさからしか契りを交わせないのは、あくまでわたしの弱さからくる態度だ。だが、できないものはできないのだから仕方がない。だからあえて、わたしはこう言っておくことにしよう。

 

互いの利益を重視するのは、約束の最低限の決まり事である、と。

論理性好き放題プラン

論理とは万能の道具である。

 

どんな主張だって、論理的に説明することはできる。たとえば、たとえば……ワクチン接種の是非について。これを読んでいるひとのほとんどは接種に賛成だろうから、あらかじめ断っておくと、わたしはもう接種を受けた。だが、反対することと論理的でないことはべつの話なのだ。

 

まちがいなく、接種に反対する論理は成立しうる。具体的な論理は、ここに書くまでもないだろう――すでにいろいろなひとが、いろいろな主張を戦わせている。反対の主張はピンキリだが、そのなかにはまちがいなく、しっかりと成立している論理だって含まれている。

 

もしあなたがそんな論理を見たことがないと言うのなら、それはあなたが盲目で、反対意見に耳を傾ける気がまったくないということだ。あるいは、そんな論理が成立しえないと言うのなら、それはあなたの想像力が欠如していて、反対意見を構築する能力がまるでないということだ。

 

繰り返すが、だからといってわたしは接種に反対しない。どんなことだって論理的に説明はできるのだから、論理的であることそれ自体は、わたしがそれに同意するかどうかとは無関係だ。わたしは、わたしたちは、ある論理が成立するからなにかに賛成するわけではない。やっているのは、ある論理とべつの論理を比べることだけだ。

 

さて、では論理の価値とはなんだろうか? どんなことにも論理が建てられるなら、どうして論理が、なにかを判断する材料になるのだろうか?

 

立ててはみたものの、これは無意味な問いだ。この問いは、論理がどうして判断材料になるのかに、論理的な根拠を求めている。なんたる傲慢な自己言及だろうか、その論理はつねに作れると言っているのに!

 

というわけで考えるべきは、論理がなにかを判断する材料になるという前提のもとで、わたしがどう生きるかだろう。言い換えるなら、論理という万能の道具を、わたしがどう操るかだろう。わたしは屁理屈を思いつくのは得意だから、この論理の世界は、わたしがうまくやれるようにできているはずだ。

 

すべてが正当化されてしまえば世の中は回せないから、世の中において、論理は成立していればよいというものではない。殺人を肯定する論理などいくらでも作れるが、だからといって殺人が正当とみなされるわけではない。そういう明確なことがらについては、世の中は論理以外のルールに従っている。

 

だが、もっとあいまいな領域では、屁理屈は力を持つ。たとえば、未来予測。やれ一九九九年に世界が滅ぶだとか、二〇四五年にシンギュラリティが訪れるだとか (似たような話だ!)、人類は未来に関して好き放題言っている。そしてそれらは、それぞれに論理的だ。

 

その論理が成立し、あるていど認められる以上、わたしはそれをつかうことができる。わたしがものごとを語るとき、わたしはわたしの都合の良い未来を、都合の良い社会分析を、都合の良い市場を仮定することができる。

 

わたしは好き放題に語り、そして、答え合わせは待つ必要はない。二〇四五年の社会がどうあれ、それはこの現在、そう予測することの論理性には影響しないからだ。わたしは現在に生き、現在の論理を語る。そしてそれが机上の空論に過ぎない限り、わたしの論理は、わたしのすべてを肯定してくれるのだ。

利己的な利他容認

ゲーム理論とは、複数のひとの行動をモデル化して扱う学問だ。そこでは、ひとの行動が引き起こす結果が、各々が合理的に行動すると仮定して解析されている。

 

たとえば、有名な囚人のジレンマ。ふたりの囚人が登場するそのゲームでは、獄吏はそれぞれの囚人に、ふたつの選択肢を与える。一方は、もうひとりを信じて黙秘すること。もう一方は、もうひとりを売って助かろうと自白すること。

 

このゲームに対し、ゲーム理論の出す結論はこんなところだ。ふたりが両方合理的ならば、ふたりとも、もう一人を売って自白することになる。だがその選択肢は、ふたりともが黙秘した場合と比べれば、両者にとって損なのだ。そしてだからこそ、このゲームはジレンマと呼ばれる。

 

だが現実には、ひとは合理的ではない。このゲームを実際に行えば、黙秘を選ぶひとだっているだろう。そしてこの場合、おかしいのは現実ではなく、理論のほうだ。理論はあくまで現実のモデル化に過ぎないのだから、現実がイエスと言えば、それはイエスなのだ。

 

さて、わたしの行動の話をしよう。こんな非合理な世の中にあっても、わたしは合理的に、いわばゲーム理論的に行動したいと思っている。世の中の人が合理的でないことと、わたしが合理的なことは別の話だ。

 

そしてそのときわたしは、世の中が合理的でないことを考慮したうえで判断をする必要がある。他人の非合理的な行動、たとえば存在しない誰かに向けられた忖度によって、合理的なわたしまでもが損をすることがあるからだ。ゲーム理論はじっさいに、そんな例も取り扱っている。

 

だがその判断は疲れる。だれかがだれかの良心に期待するのと同様、ほんらいわたしは、他人の合理性に期待したいのだ。互いが得をするならそうしたほうがよいという、単純だが現実には成立しない論理に。

 

そしてその論理は成立しない以上、期待などしてはいけない。非合理的な人間を馬鹿だと糾弾するのは簡単だが、それはわたしをただしくも、世の中を合理的にもしない。

 

逆に言えば、わたしは誰かの非合理性のほうにだって期待することができる。世の中にはとても合理的には見えないたくさんの利他主義者がいる。そして彼らが非合理だからといって、彼らがタダでくれる利益をみすみす逃すのは、合理主義者として正しい態度とは言えないだろう。

 

そしてどうやら、わたしは完璧な合理主義者ではないようだ。利他主義者によくしてもらったとき、わたしはいくばくかの良心の呵責を覚える。わたしもなにかの見返りを与えなければいけないかもしれないことに、だがとてもその気はないことに。

 

わたしは利己主義者だ。そして全員が利己的であれば、世の中はある意味生きやすいだろう。わたしは誰にも気を遣う必要はなく、ただ自分と相手の利益を勘定していればよいのだから。

 

だが、そう指向するのは筋が悪いかもしれない。その世の中は、確かに生きやすいが、得られる利益は小さいだろう。つまるところ、他人の好意を曲げさせようとするのは、おおかたの場合合理的ではないのだ。

ご都合主義に身を捧げよ

今日は疲れたので、日記は軽く済ますことにする。

 

ここ数日わたしは、わたしが意見を持つということについて書いてきた。今日は新しく何かを考える気力がないから、かわりにその議論をまとめなおしてみることにしよう。

 

まず、政治や環境問題といった世の中の大きな問題に関して。そんな問題は大規模すぎて、わたしの意見はまず通らない。だからそんな大事には、わざわざ首を突っ込んでも仕方ない。だから、意見など持っても仕方がない。

 

他人の意見も同様だ。わたし以外のだれかだって、わたしと同じようにちっぽけだから、そんな誰かの意見が世の中を変えることなどありえないのだ。もっとも、ほかの誰かの意見にわたしは興味を持ったり、納得できる説明を求めたり、カマをかけてみたりはするしれない。だが断じて、評価したり断罪したりする気はないのだ。

 

だがわたしはそれでも、あれこれと考えるのは好きだ。そして世の中は絶えず、あれこれと考えるためのテーマをわたしに提供してくれる。わたしはわたしの興味にしたがって考え、そしてその副産物として、わたしは意見を持ってしまう。

 

わたしはいろいろな側面を考えているつもりだから、その意見は、対立する複数の意見の重ね合わせかもしれない。だから仮に、わたしが実現を求めるなら、わたしはわたしのなかの矛盾に苦しむだろう。だがわたしはわたしの意見の実現など求めない。だから、矛盾したどっちつかずの態度でも、なんの問題も起こらないのだ。

 

では、研究や事務手続きと言った、身の回りのローカルな問題に関して。大きな問題と同様、これらもまた面白いコンテンツには違いないだろう。規模こそ小さいが、逆にわたしは、それらを高い解像度で眺めることができる。だから本来、わたしの好奇心は、絶え間のない実験的目線でわたしのまわりをも見つめているはずだ。

 

だが身の回りの問題には、わたしの利害が絡んでくる。わたしはまわりを変えることはできないかもしれないが、とはいえ、普段からその中で行動している。そしてわたしは残念ながら、意見とまるきり逆の行動をとれるようにはできていない。

 

というわけで、わたしの選択肢はふたつ。意見に合わせて行動を変えるか、突拍子もない意見に飛びつくのをセーブするかだ。そして、前者は筋が悪い。好奇心に基づくわたしの意見は、しばしば実行不可能だったり、攻撃的過ぎたり、能天気すぎたりするからだ。

 

だからわたしは、わたしのまわりに関して、穏当な意見を探している。わたしが納得できるが、わたしの行動とは矛盾しないような。バランスの取れた意見を、後付けのご都合主義を、みずからを正当化するための論理を。

 

そして、わたしはその態度を恥じてはいない。

 

わたしに信念はない。あるとすればそれは、信念など持たぬべきだという信念だ。わたしの理想とは、どんな突拍子もない思想をも対等に尊重することだ。ひとがどんな思想を持っていようが、それにいかなる評価も与えないことだ。そしてそこからどれを選び抜くかを、あるいはどれも選ばないかを、わたし自身の都合で決めることだ。

 

わたしの意見は自由だ。そして自由とは、わたしにすら縛られないという意味ではない。わたしはどんな意見を持ってもよく、そしてそれは、どんなにくだらない原理に基づいていてもよい。

 

そしてもし、意見を変えるべきときが来たなら、これまでの発言や、態度などすべて脱ぎ捨てて、ご都合主義に身をゆだねればよいだろう。わたしの都合は変わっていくし、なにより、過去のわたしとは他人に過ぎないのだ。

全ての思想を否定する

現代において、個人の思想は不可侵だ。それが誰かを侵害し、傷つけたりしないかぎりは、いかなる思想も尊重される。思想が思想でしかない限りは、ひとの思想は自由だ。

 

そして原則的に、すべての思想は対等だ。だから、どんなに突拍子もない見解も、どんなに身も蓋もないことばも、建前のうえでは、一般常識とまったく同じだけの価値を持つことになっている。

 

たとえば、スパゲッティモンスター教。キリスト教にもとづく学校教育を皮肉る目的で設けられたその教団は、それでも建前上は、キリスト教と同じだけの価値を持っている。建前に目的は関係ないからだ。宗教のかたちをしていて、そして信仰をじっさいに公言できる以上、それはじっさいに宗教なのだ。

 

そしてある意味、思想の対等性とは、多様性を認めることだと言えるだろう。どんな思想も、多様性の名のもとにひとしく尊重される。それがどんな皮肉や、ご都合主義や、野次馬根性に基づいたものであっても。

 

そしてもちろん、そんなものは屁理屈だ。

 

じっさいのところ、思想には価値の違いがある。いやむしろ、あるべきだ。もしすべての思想が平等であれば、だれかの咄嗟の屁理屈と、だれかが本気で信奉しているものが同じ価値だということになってしまう。そしてそんなことでは、まともに世の中は回らない。

 

だから、思想の価値を峻別するのは、きわめて常識的な態度だ。だがそこには、きわめて聞こえの悪い言い換えが成立するだろう。すなわち常識とは、多様性の否定なのだと。

 

さて、わたしは本来、すべての思想が等価だという屁理屈を愛している。世の中には、へんてこな多様性に従ってへんてこになって欲しいと思っている。というのも、わたしは自分だけの思想を信奉するのが好きだし、その態度が認められていたほうが都合がいいのだ。多様性の名のもとに、屁理屈が認められたほうが。

 

それでもやはり、わたしの具体的な思想が屁理屈なことにかわりはない。そしてまた、多様性を盾にそれを認めよと言うのも依然として屁理屈だ。さらには、すべての思想を等価に扱えという意味で多様性ということばをつかうことすら、すでに屁理屈だろう。

 

だがそれでも、わたしはわたしの思想を育てたい。そしてその場合、わたしに残された道はひとつだ。身も蓋もなく、不遜で、暴力的な手段。

 

そう。わたしの屁理屈が道理に格上げできないのならば、道理のほうを屁理屈へと引きずりおろしてしまえ。

 

まったく敬意に欠ける態度だ。その態度こそ多様性に逆行し、世の中全てを馬鹿にしている。だが、すくなくとも理にかなっているという意味では、意外といい態度なのかもしれない。つまるところ、どの道理にも納得しないことじたいは、べつに屁理屈ではないのだ。

思考というデザートは、辞めるときのためにとっておく

世界というおびただしさの前では、わたし個人はちっぽけだ。世界の諸問題に関して、わたしにはいくつも思うところがあるが、その思いををいかに大声で叫ぼうが、わたしの声が実際に世界を変えることはない。

 

そしてだからこそ、わたしの見解は自由だ。世界への影響だけを根拠にするならば、個人のいかなる思想も正当化される。なぜなら、個人がなにを叫ぼうが、世界は変わらないのだから。

 

そしてわたしは、見解が好きだ。様々な種類の突拍子もない見解を検討し、いじくりまわし、だれも主張していないような見解をつくりだすのが好きだ。そうして、みずからの奇怪な見解にわたし自身を沈め、世の中をへんてこな角度から見つめるのが好きだ。

 

そう、わたしの見解とは、最高に自由なわたしだけのおもちゃなのだ。世界のことだけを考える限り、完全完璧に安全な。

 

だがもっとローカルなことを考えるなら、見解は安全ではない。わたしの見解は世界こそ変えないが、わたしの行動は変えてしまうからだ。見解が異様ならば異様なほど、わたしの行動は過激になる。そうして、とりわけみずからが従事することがらについては、過激な行動は悪手なのだ。

 

たとえば、理論研究。研究に従事する身でありながら、わたしは、わたしの研究にどんな意味があるのかわからない。そして十中八九、意味なんてないと思っている。

 

「わたしの研究」ではなく「理論研究」と書いたように、意味がないのはわたしの研究だけではない。じぶんの研究の応用例を語るとき、わたしはいつもその空虚さにさいなまれているが、それはわたしの研究にかぎった話ではない。ほかの研究者の語る応用だって、わたしの語る応用とおなじくらい空虚で、付け焼刃で、嘘くさいのだ。

 

だから論理的に考えれば、理論研究なんて金の無駄だ。わたしたちの研究予算には、どう考えてももっとマシな使い道がある――たとえば、文部科学省のお役人さんたちがたがいの激務を労い、軽井沢の高級コテージに一泊する、といった。そのほうがすくなくとも、だれかが幸せにはなるからだ。

 

というわけで、わたしは無駄に従事する民だ。世の中にはもっと有意義なことがいくらでもあるのに、それでもわたしを無駄にする以上、わたしにはそれ相応の見解が必要だろう。わたしが納得できるほどの、筋の通った見解が。

 

そしていまのわたしの見解は、単純だ。

 

そう、その見解とは。いや、言い訳とは。

わたしはわたしの楽しさのために、研究をしている。

 

さあ、わたしは見解が好きなはずだった。さまざまな見解を検討し、混ぜ合わせ、わたしだけの重厚な見解を紡ぎ出すのが好きなはずだった。そして新たな見解に基づいて、世の中を見つめなおすのが好きなはずだった。

 

だが、この見解は。

それはあまりに単純で、面白さの欠片もない、直情的な思考停止にすぎない。

 

ローカルな件について、奇怪な見解は危険だ。そしてどうやら、わたしは直感的にそれを知っているようだ。わたしの好奇心は旺盛だが、それでもわたしは、わたしが考えるべきでないことを考えないだけの、日和見主義的な分別を身につけているらしい。

 

そしてその日和見主義は、まったく褒められた態度ではない。とりわけ、世の中を最高のコンテンツだと言い張り、思考をゲームとして楽しむ者にとっては。わたしがわたしの見解に誠実であるためには、わたしは研究に関しても、わたし自身の認識を内省し、みずからの心をえぐり、あらたな認識をつくりだしてことばにしなければならないはずなのだ。

 

だがわたしが研究に従事し、研究を楽しんでいるうちは、その執行は悪手だ。だからわたしは、しばらくだましだましで、研究をやっていくことになるのだろう。

 

そうして、ついにわたしをだましきれなくなったときには。

 

そのときこそ、わたしは研究への見解を確かにする。そしてそのとき。

それこそが、わたしの研究の、最高のデザートになるのだ。

世間的突飛コンテンツ

世の中にはたくさんのひとがいて、それぞれみな異なる思想を持っている。政治や経済、大学受験の勉強方法からプロ野球の采配に至るまで、まったくおなじ思想のひとは二人と存在しないだろう。

 

そして、世の思想とは、個々人の思想の莫大な寄せ集めである。全体から見れば、ひとりの思想は矮小だ――もっとも、ある人の思想は過激である人のは穏当だったり、またある人の発言権は大きくある人のは小さかったりもするが。だからほとんどの場合、わたしがどう思っていようが、世の中全体にはなんの影響もない。

 

というわけで、わたしの思想は自由だ。ある問題に関して、わたしがいかに過激な思想を持っていたとしても、それだけで世の中がわたしの思い通りになったり、あるいはわたしのような人間を排除する方向に動き出したりはしないからだ。逆に言えば、わたしがその問題に一切の関心を寄せなかろうが、問題自体が消えてなくなるわけではないからだ。

 

思想が世の中に影響しない以上、わたしの思想はわたしのためにある。そしてわたしは、面白いことが好きだ。だからすなわち、わたしの思想は、面白ければ面白いほど良いということになる。

 

そして面白い思想とは、世間一般的な、常識的な思想ではありえないだろう。それは社会システムと倫理観にがんじがらめにされていて、なにを考えてもまず、不自由な現実の問題が顔を出してくるからだ。すなわち、わたしにとってのよい思想とは、思考実験というゲームの体験をより高める、より突拍子もない思想のことだ。

 

さて、冒頭に述べたように、世の中にはたくさんの人がいて、みなそれぞれ独自の思想を持っている。その数はあまりに多すぎるせいで、わたしが考え付くようなことは、すでに数えきれないほど考え尽くされている。だからわたしがいかに突拍子もない思想を持ったと思っても、その思考実験の結果は、まったくあたらしいことにはなりえないだろう。

 

だがだからといって、思考実験はつまらないわけではない。

 

たとえば、独我論。世の中に存在するのはわたしだけだというこの思想は、あまりに使い古され、くたびれている。他人がみな意識のないロボットかもしれないという仮説に、誰しも一度は思いを馳せたことがあるだろう。そうして、それが原理上否定されようがないという事実に、末恐ろしい気分になったことがあるだろう。

 

だがそれでも、世の中は独我論をもとに回っていない。世の中にわたししかいないのであれば、社会など回せないからだ。そしてそれこそ、独我論が自由なゆえんである。独我論は、世の中の一要素でありながら、絶対に主流にはなりえないからだ。

 

世の中は最高のコンテンツだ。世の中を変えるなどという実現不可能な試みにみずからを浪費しようとさえ思わなければ、世の中はわたしたちに、あらゆる思想の種をもって答えてくれる。そして、その尽きることのないコンテンツの宝庫に魅せられて、わたしはわたしのためだけの思想をあたためてきた。そしていま、その宝物の一部を、こうやって文章にしている。わたしのために、完全にわたしのためだけに。

 

というわけで、わたしは感謝せねばならないだろう。わたしに考えさせてくれる世の中に、わたしに文章を書かせてくれる世の中に。

 

だがそれでもわたしは、世の中になにかを返そうと試みる必要はない。わたしは世の中を変えることはできないし、さらにいえば、変えなくてもじゅうぶんに面白いのだ。