意義の振り返り ②

 研究の持っている意義というものに関する反発は、わたしにとってはもはや過去のものになった。その正体が、意義を理解できないということに対する心細さではけっしてなく、意義に共感してしまう日が来てしまうかもしれないという恐怖にもとづいたものだと分かったのがそのきっかけであった。

 

 分かってしまえば、自分がそうならないように努めるのは思ったほど難しくない。最初は難しいのかもしれないと思っていたが、いまにして思えば、そんなことはない。

 

 もちろん油断は禁物である。禁物であるということになっている。オレオレ詐欺やカルト宗教のようにそれは、自分は大丈夫だと思っている人間の心にこそうまく入り込むものだろうから、最低限の警戒は保っておかなければならない。

 

 だが自分がそのような意味でもっとも脆弱な人間であると信じ込むこともまた、事実に即した認識を阻害する、悪しき態度である。うまくいった試験の結果を無理に隠すときのような、行き過ぎた謙虚さとでもいうべきか。警戒とは、セキュリティの意味ではやってやりすぎることはないことかもしれないが、べつに人生はセキュリティだけで成り立っているわけではないのである。

 

 いろいろと書くことを通じて、身の回りの問題に対する自分の論理を固めてきた身からしてわたしは、自分の判断力というものはきっと、それが熟慮によってしっかりと構築された論理にもとづいている限り、世に言われるほど信頼できないようなものではないのだと考えている。

 

 そう考えると次に進みやすい。どう自分の感性を守っていくかという喫緊の課題が消えれば、目の前にありのままに広がる景色を楽しめるようになる。この場合はつまり、研究の意義と呼ばれているものの正体がいったいなんであるのか、ということである。言い換えれば、意義ということばを、ひとびとはいったいどのようなものを指す概念として使っているのか、ということである。

 

 すくなくとも、それはわたしが意義と呼んでいたものではない。もしそうなら、世界は狂人の集まりである。そしてわたしが見る限り、研究に携わる人間のほとんどは、研究の文脈であらわれる類の出来の悪い夢物語を信じ込むような、狂人でも陰謀論者でもない。

 

 つまり問いは、それが原因で三年前のわたしが不必要な疎外感と不信感と恐怖を抱くことになった、わたしと世の中のあいだに発生していた意義という単語にかんする齟齬の正体を、より分かりやすいことばで言い換えろということである。