意義の振り返り

 日記をはじめるという選択にわたしを衝き動かした理由のうちのひとつに、研究とその意義というテーマで書きたいことがあった、というのがある。いまはもうそれほど書きたくもないが、当時のわたしは書かずにはいられなかった。振り返ってみればあれは若さのあらわれだったのだろうが、若さというものはつねに、あとから振り返ってはじめて理解する概念である。

 

 日記ももう終わりだから、まとめにかかっても構うまい。わたしがしようとしていたことが研究に意義があるのだという言説の否定であるということは、当時からよく分かっていた。だがそういうことを繰り返すにつれ、自分のことばがだんだんくだらなく見えてきた。だからわたしは最近、それについてあまり書かなくなった。

 

 嘘だと気づいたからではない。研究というものが持つ社会的意義の大きさに研究を通じて気づいたとか、そういう優等生的なストーリーはあいにく持ち合わせていない。ひとびとがそれぞれの領域について語る有意義な物語に感銘を受けたわけでもなければ、説得力のある物語を語る能力を手に入れたわけではない。

 

 気づいたのはむしろ逆のことだった。わたしはつまり、どこまで行ってもけっして、そのような充実した物語の一員になることはない。そう気づいたのだった。

 

 そしてその気づきがわたしにもたらしたものは落胆ではなく、むしろ安堵と呼んでもいいものであった。

 

 だからわたしは書くのをやめた。落胆の内容はいかようにも書き記して精査する価値があるが、安堵という名の現状の是認は、新しい考察をなにももたらしてくれないから。

 

 当時のわたしは恐れていた。意義というけっして理解しえないはずのものを周りのひとびとが語るのを見て、そしてそれに反発する人間の少なさを見て、わたしはいつかかれらと同じように、意義という物語に取り込まれてしまうのではないかと恐怖していた。だからこそわたしは全力で否定しなければ気が済まなかった。否定しないということは、嘘にしか見えないものを信じ込む宗教団体の一員に自分がなってしまうという未来の一部をおだやかに受容することだったからだ。

 

 すでに述べたように、それは間違いなく若さであった。若さゆえの、自信の欠如がゆえの不安だった。いまにして思えばわたしはそんな心配をする必要はなく、もっと自分自身の一貫性に自信をもってもよかった。だが当時はそこまで、鷹揚と構えておくことはできなかった。