意義の振り返り ③

 研究の意義なるものをわたしが否定するとき、それは世の中でそう呼ばれるものと比較して、ずいぶんと狭い領域を指していた。意義なるものが本質的に持っている切り離しがたい主観性は、意義のあるとしていた範囲に明快な線引きを与えることを逃れがたく阻害するわけだが、それでも一応、ことばにしようと試みることはできる。

 

 わたしが言う意味での意義とはつまり、その研究がいずれなんらかのかたちで社会に還元されるという物語が、一応の信頼に足る程度の説得力を持つことであった。必ずしも即座に役に立つものである必要はないし、予測に反して世の中がべつの方向に進んでいったとして研究の意義が毀損されるとも考えないが、とにかくそれが役に立つという妥当な予測を現時点で行うことができるという意味で、意義という概念を使っていた。

 

 もちろんわたしは、自分や周りの研究に意義が必要だと考えていたわけではない。必要だと考えていたのなら、わざわざ躍起になって研究の意義を否定しようとしたりはしない。わたしの思考はその逆であり、わたしの考える定義に従えばどちらにせよわたしたちの研究に意義などありえないのだから、すべての研究にいちいちそんなものを求めるのはナンセンスな態度である、と主張したかったわけだ。

 

 そしてだからこそ、研究の意義としてわたしが考える定義は、すくなくとも研究者のなかで言われている意義の定義とくらべて大幅に小さなものになった。一般論に従えば明確な話で、なにかがなにかに属することを否定したいとき、その後者の定義をいかようにもいじくれるのだとすれば、極限にまで狭くしてしまうのがいちばんいいわけだ。

 

 だがわたしは長い間、自分を支配するそのバイアスに気づかなかった。意義なるものの定義の広さは、意義を否定したいという自分の欲求に歪められるものだという事実をわたしは自覚しなかった。

 

 だからこそ、齟齬に気づかなかった。

 

 意義ということばを、研究者の多くはもっと広い意味で使う。応用の研究者がどうなのかは分からないが、すくなくとも理論の人間はそうである。そして広い意味というのは矛盾するようだが、より狭いコミュニティの理屈を適用するという意味である。

 

 社会に還元する可能性によってはじめて意義なるものが生まれるという厳格な考えかたをかれらはしない。そう言うと批判しているようにも聞こえるから、よりフラットに言い換えよう。かれらが意義と呼ぶのは、同業者が面白いと思ってくれるという事象である。そしてその意味において、ひとははじめて、自分たちの研究に意義を求めることができるのだ。