境界 ③

 これは、実感がわかないということなのだろうか。

 

 わたしはたしかにずっと学生だった。五分の一世紀のあいだ、途切れることなく学生であった。なにかを学ぶということは、すくなくとも建前の上で、わたしの本分であり続けていた。賃金の対価としてほかのなにかに貢献するということは、したことがないわけではないとはいえ、あくまで副次的なものだった。

 

 だから自分が学生でなくなるということが想像できない、というのは、すごく自然なことのようにも見える。そうでない状態を経験したことがないのだから、当たり前である。

 

 とはいえこの先の見えなさは、不労所得で食べていくと決めた人間をのぞいただれもが原理上体験するもののはずである。多くの人間は大学に九年間も通わないから、わたしよりも早い段階で経験している。学生でなくなるという事実は自分自身にとって巨大ななにかを意味するに決まっている、と論理的には理解しているのに、いつまでたってもその影もシルエットも見えてこないという、このふわふわとした不思議な状態を、きっとだれもが一度は経験している。

 

 新生活は現在とは断絶したものであり、だからしてきっとすこぶる不安であるべきなのに、その不安が一向に訪れる気配がないという不思議な楽天主義。いまにも崩れそうであるべきはずの楽観という足場は意外なほどに強固で、踏んでも揺すっても、わたしはそのふわふわした雲から落ちそうにない。すぐそこに世界の果てが迫っており、あと数歩進めばきっと見えない境界にぶち当たるはずなのに、すべての現象が不自然なほどに普段通りで、ためて見てもすがめて見てもなお、おかしなものはなにもみえない。

 

 そしてそんな状態だからこそ、その知覚不能の境界が社会に出た瞬間に突然、はっきりとしたかたちを取るなどという物語を、わたしはとても信じる気にならない。

 

 信じようとして信じられないということは、おそらく虚構なのだろう。

 

 新生活はきっとなにも変わらない。大学から大学院に行ったときがそうであったように、変化とは微々たるものであり、せいぜい新幹線の学割が使えなくなるとか定食の大盛りが無料でできなくなるとか、そういう違いにすぎない。それ以上の本質的な変化をわたしは予測できないし、予測できないということは心配もできない。心配ができないということは、人生の転換点であろうとなんとなく理解していたこの境界が、じつは大した境目ではなかった、ということになる。