闇から外へ

 書こうにもなにを書けばいいかよく分からないと思っていた博士論文の、全体像がようやく見えてきた。こうなってみるともう、気持ちはずいぶん軽くなってくる。やるべき作業はもう見えており、あとはそれを粛々と進めればよく、そのための時間はじゅうぶんにある。つまり、余裕である。

 

 数日前まで、わたしは正反対のことを思っていた。全体像はあまり見えず、どこになにを書いたらいいのか見当がつかず、だからこれまでの作業がいったいどれくらいの進捗を生んでいたのかよく分からなかった。そして全体像が見えない原因は、論文が長すぎて一度に全体を把握しきれないからであり、全体の構成を考えようにも、なにを考えればいいのかよく分からないからだった。

 

 そのことについてわたしは、問題を抱えているひとがいつもそう考えるのと同じ考えかたをしていた――この手の作業を進めるにはまずここが暗闇であることを受け入れ、そのうえで闇の中を無理やり進むしかないのだと。博士論文の全体像などいつまで経っても見える日は来ないから、日記のような短い文章を書くのと比べてはるかに非効率な執筆をしていることを自覚していようが、それを仕方がないことだと考えて書き進める以外にきっと方法はないのだろうと、わたしは考えていた。

 

 それは嘘であった。それはこれまでに経験したことのないなにごとかを始めた人間の典型的な不安であり、目の前のタスクを過大評価して勝手に怖気づく、わたしはそんな素人であった。自分の書く論文の全体像を把握するということはべつに不可能な作業でもなんでもなく、しばらくそれと格闘していれば、自然と見えてくる境地である。そうなるまでにはある程度の時間が必要ではあるが、逆に言えば、必要なものはそれだけだ。

 

 というわけで、わたしはだんだん、博士論文くらい書けるのだという気持ちになってきた。冷静に考えてみれば当たり前で(さすがにそれが当たり前であるという論理的事実を見失うことはなかった)、結果が出ているのに論文にまとめられないという博士課程学生の話をわたしは聞いたことがない。だれもができていることだから、当然わたしにもできるはずだ。その手のことを、わたしだけがとくべつ苦手なことでありだからできなくても仕方がないのだと考えるほど、わたしは変な方向にうぬぼれてはいないつもりである。

 

 繰り返すが、必要なものは時間であった。最初はどうまとめようかと思っていた論文の束も、しばらく眺めているとだんだん、最終的な形が見えてくる。たぶんたいていのことはそういうもので、分からないままにもがいているうちに、だんだんその輪郭が捉えられてくる。そして逆に、輪郭を捉えるにはある程度、闇の中でもがく必要があるのかもしれない。