わたしがこの日記を終えたなら、この場所を更新するひとはいなくなる。わたしは徐々にここの存在を思い出さなくなっていき、どこかの会社がいつの日か特定の決断をしたとき、ほかのたくさんのものと一緒に消える。
だがここに四月以降、新たな一筆が加えられることがあるかもしれない。日記が打ち棄てられたことを示す機械的なメッセージとは別に、人間の手で書かれた文章が、である。もちろんそれは、わたしのアカウントが乗っ取られない限りはわたしの文章である。わたしはそういう状況を想定している。
書くという行為から離れたあとのわたしが、ふたたび書くことに飢えるのかどうか。日記をはじめる前には身近だったその感情は、三年間書きつづけたあとであっても、再び顔を出しうる発作なのかどうか。もしそうなら、わたしは書かずにはいられないだろう。そして書かずにいられないとき、わたしがその衝動を解放するために使うのは、わたしがいちばんよく慣れ親しんだこの場所になるだろう。
つまり、ここにはまだ、新たな文章が書かれる可能性がある。そしてそうなったとき書かれるのは、いま書いているほとんど惰性と義務感だけによって生み出された駄文ではなく、こらえきれない衝動を全力でぶつけた、内容の濃いものになるだろう。
そういうものをここに書くことに、逆にわたしは抵抗を覚えるかもしれない。
ここの文章に中身はない。すくなくとも、書きたいと思って書かれた文章ではない。書きたいと思って書かれた文章の載っていない場所に突然、なにかわたしにとって重要な内容をぶちまけるのは、少々もったいないとわたしは思う。そういう未来ももしかすると、あるのかもしれない。
まあ、それは先になってみればわかることである。そして、心配するべきでもないことである。未来への心配はときとして有用だが、その未来が自分自身の願望や命運ととくに関連しないのなら、そうする必要はない。
いま言えることは、わたしはここに、存在するならばここの読者に、正式な別れを告げる必要がないということである。
卒業、というイメージが、もっともいまの状況に合っている。
毎日当たり前のように付き合っていた相手と、これからは疎遠になる。だが関係をつなぎとめておくのは簡単であり、ただお互い示し合わせて戻ってくればいい。再び会おうとわたしたちは、時間と場所を決めずに約束する。永遠の友情を誓いあう。
けれどももちろん、その誓いが完璧に果たされることはない。別れが毎回、そうであったように。