最後の時間 ④

 日記を書くのは簡単な作業である。最初のうちこそ負担に感じていたが、いまではもうそんなことはない。

 

 簡単になったということがいいことなのかには議論の余地がある。あるが、いまさらそんな話をしても仕方がない。泣いても笑っても(とはいえ、泣くことも笑うこともないだろうが)この日記はあと一ヶ月で終わる。いまさら態度を変えたところで先はない。

 

 もっとちゃんとした文章を書くことに挑戦するべきだ、という話であった。すくなくとも、とりとめのない思考をそのまま書きつけただけのものではない、きちんと構成の考えられた、真剣な文章をわたしは書きたい。書きたいが、日記でそれをやるのは不可能である。日記は毎日書くものであり、真剣な文章とはとても、毎日のように書けるようなものではないのだ。

 

 そうだ。せっかくだし、日記がいまのわたしにとってどれくらいの負担になっているか、という話をしよう。

 

 書くことは難しくない。書き始めれば自然と手は動く。最近では、書きはじめてから書きおわるまでだいたい二十分程度でいけるようになった。二十分で考え付く内容しか書いていないといえば、わたしがいかに雑にこれを済ませているのかを分かってもらえるだろう。

 

 けれども同時に、二十分とはそれなりの時間でもある。第一に計算上、それは一日の七十二分の一を占める時間なわけだし、毎日書き続けるならそれは、生活の七十二分の一を費やしている行為である。

 

 もちろん労力はそれでは済まない。かなり適当に書いているとはいえ、わたしはたしかに執筆をしているのだ。それがいかに表面的なことばであっても、なにかを自分の中から引っ張り出すというのはやはり、気力をつかう作業である。

 

 つまり、当たり前のことではあるが、日記に費やす労力とは、消費される時間という単純な尺度で測れるものよりはるかに大きい。実際には何分の一なのか、とは聞かないでほしい――定量化できないものをむりやり定量化して評価しようとするのは愚かな行為である。

 

 人類は怠惰である。

 

 毎日、日記を書きはじめるまえにわたしが過ごしている無益な時間の存在を、きっと読者は分かってくれるだろう。書きはじめれば簡単だと分かっているのに、書くという行為のそれなりの精神的負荷のまえに身構えている、そんな無駄な時間だ。ネットサーフィンをしたり動画を見たりして、そろそろ書かなくちゃ、と思うようになるまでわたしは待ち続ける。ないほうがいい時間だが、ないほうがいいものがかならずなくなるわけではない。