終わりのあと ①

 そういえば、日記をやめたあとのことについてまだ書いていなかった。つまり、やめたらここをどうするつもりなのか、ということである。

 

 とりあえず、削除するつもりはない。せっかく書いたのだから、消し去ってしまうのはもったいない。残っていたところでなにかの役に立つのかと言われれば、ぜんぜんそんな状況は思いつかないけれども、思いつかないということと存在しないということとはイコールではない。

 

 とはいえ十中八九、ここは単に忘れられる。というかそもそも、存在を認知しているひとがほとんどいない。わたし以外のひとがここを利用する可能性はほぼゼロに近い。そして当のわたしも、そうする機会などいくらでもあったのにもかかわらず、過去の自分の文章を読み返したことが一度もない。

 

 となるとここは役に立たないに違いない、というのが一般的な見解であろう。つまり、消しても残しても同じである。同じなら消してもいいし、残しておいてもいい。要するに、わたしがこの場所を残そうとしているのは、単にわたしが、すっぱりとこういうものを消してしまえるような人間ではないからに過ぎない。

 

 つまり、不要なもので部屋があふれかえる人間の思考である。さいわいなことにインターネットには実体がないので、二度と読まれない古文書をサーバー上に散乱させておいたとして、これといって困ったことは起こらない。そのサーバーが自分のものでない場合はとくに、である。

 

 ここは放置される。三年も費やしたのだから、わたしがこの日記の存在そのものを忘れてしまうことはないだろう。それでもここは、時の流れのなかでゆっくりと存在感を失っていく、多くの思い出のうちのひとつになるだろう。その意味で、ここは次第に忘れられていく。

 

 そして時が流れ、この文章を保管しているサーバーがなんらかの理由でその機能を失ったとき、わたしはこの数メガバイトの文字たちを移管するでもバックアップするでもなく、ただ単に、消えるに任せるだろう。

 

 そうなるのはたぶんずっと先の話だが、同時に、わたしが生きているあいだの出来事でもあるような気がする。

 

 それをわたしは許せるのか。もちろん、許せるからこういうことを書いている。

 

 そうなったとき、わたしは寂しさを覚えるだろうか。

 

 昔評価されなかったものが、あとになって評価されるということはありうる。とはいえこの日記が、わたしではないだれかによって再発見されることはないだろう。そうなるのはわたしがよほど偉大な存在になるか、あるいは重犯罪を犯すかして、わたしの過去が熱心に探られる場合に限る。そうなるつもりはないから、そういうことは起こらない。

 

 だが評価者が未来のわたしならば。

 

 もしかすると数十年後、わたしは初めて、この日記を読み返すのかもしれない。