書けるもの

昨日までの日記、タイトルに①と書いてまるで続編があるかのような感じにしてみたが、実のところそんなものはない。期待していたひとなんていないだろうから、謝る必要もたぶんない。

 

構想があったわけでもない。思わせぶりな終わりかたをする物語に対し、よく「続きが気になります」などといったしょうもない感想を残すひとがいるけれど、続きなんてものがないからこそ物語は思わせぶりに終わらせられるのだ。読者が知らない主人公たちの未来はおなじく作者も知らないのであり、作者をおだてて続きを明らかにさせようとしたところで、そんなものは絶対に出てこない。物語が思わせぶりに終わっているのは、思わせぶりに終わるのが一番いいと作者が判断したからである。

 

むろんわたしが考えていたのはそんな高尚なことではない。物語の冒頭部分らしきものをそれだけで終わらせて、それを読んだ読者がいったいどういうことを感じるのか、わたしは一切想像していない。あの文章たちがあそこで終わっているのは単にわたしの都合でしかなく、もっとあけすけに言えば、文字数がちょうど、日記の執筆に関してみずからに課しているノルマに達したからにすぎない。

 

だからあの文章たちはまごうことなき中途半端であり、中途半端になるという確信のもとに生み出された尻切れとんぼである。

 

とはいえ。なにも言わずに始めたあの試みの、種明かしをしてもよい頃だろう。種と言ってもべつに大したものではなく、文章の練習がしたかったからだ。小説らしき文章を練習するには小説を書くほかはなく、けれど小説を書くにはストーリーが必要で、そしてストーリーというものが勝手にぽんぽんと生えてくるようなものではない以上、それなしでどうにか小説を書く必要が出てくる。だからわたしはなにも考えずに書き始め、存在しない次のシーンに行く前にやめた。それだけの話だ。

 

文章にはだれしも、得意不得意がある。文章全体から香ってくる、独特の雰囲気といったものにはとくに。あれらの文章を通じてわたしがしたかったのはわたしの得意を見極めることであって、ゆくゆくはなにか実のあるものを書くために、自分がつくりだせる雰囲気がなんなのかを知ることである。そして書くことができるものだけでストーリーを構成するための、得手不得手の判断基準を設けることである。

 

そして書いたものを見るに、わたしがつくり出せる雰囲気とはすべからく、現実離れした寂しさというか、そういうものを含んでいるように思える。