最後の時間 ➄

 書かなければ、と思いながら過ごす無益な時間をふくめることにすれば、わたしはこの日記に毎日、無視できない長さの時間を費やしている。

 

 もちろんそれは無駄な時間である。それ、というのは特に、わたしがついさっきまで経験していた、書こう書こうと思いながらだらだらと過ごす時間のことを指している。しかしながらこれまでの経験上、そういう時間は削減しようとして削減できるようなものではなく、したがって無駄なのは、日記を書くという行為そのものだということになる。

 

 つまり日記をやめるとは、こうして無駄なことを書いて無駄遣いしている時間を解放し、ほかのもっと有意義なことに活用するための決断である、ということになる。「ほかのもっと有意義なこと」に該当するものがなんなのかはよく知らないから、わたしはただ単に、なんの理由もなく、日記をやめるだけである。

 

 時間がないと言ってなにかを断るやつが嫌いだ。

 

 時間はある。作ればあるという意味ではなく、ただ、ある。

 

 時間を賢く使って五分十分をひねり出せだとか、そういう意識の高いことを言っているのではない。だらだらと浪費したところで、時間は万人に共通して流れている。

 

 世の中のひとびとの多くはたしかに、めまぐるしい勢いで働いている。よりたくさんのひとが、忙しく働いているふりをすることに全力を尽くしている。忙しくない人間にとって、両者のあいだに違いはない。どちらとも、話せばまず時間がない時間がないと、つまらないことを口癖のように繰り返す連中である。

 

 かれらに対する漠然とした反感をことばにするのは難しい。気合が足りない、というのとは違う。よく言われる指摘として、やつらは忙しいことをものごとを体よく断る口実にしているだけで実際はそれほど忙しくもないのだろう、というものがあるが、それもいまいちピンとは来ない。かれらはほんとうに忙しいか、すくなくともわたしを騙しとおせるくらいには忙しいアピールが上手であり、それを無理に調整してもらってまでわたしに付き合えと思うことはない。

 

 それでもしいて言うなら、こういうことになるかもしれない。やつらに時間がないのはそいつら自身の選択の結果であり、したがってその全責任はかれら自身にある。そして責任が自分にあるものごとは、なにかを正当化するための言い訳にはならない。

 

 これだ、と膝を打つまでには至らないが、いまのところこの説明が、わたしの反感をいちばんよくあらわしている。