引き延ばし

 書くことがないのに話をふくらませなければならないなら、筆者はどうすればいいか。もちろんペンを置き、紙を破り捨てるべきである。そしてひとしきりストレスを発散したならば深呼吸して、できませんでしたと素直に謝るべきである。

 

 そうできない場合はどうすればいいか。なにも書かずにいられたならばそれに越したことはないが、世の中には結構、書かねばならぬ文章というものが存在する。「存在する」と言ったがそれはすこぶる控えめな表現で、実際のところ世の中の文章のほとんどは、書かねばならぬがゆえに仕方なく書かれている。こんなものだれが読むんだと思いながらわたしたちは日々文章を書かされていて、出来上がったものの内容の薄さに愕然とし、それが自分の責任で外に出ることを恥ずかしく思い、とはいえ提出しないわけにはいかないので、おのれの自尊心やら美的センスやら良心の呵責やらにすべてことごとく目をつぶってしかるべき相手にその文章を送り付け、その瞬間にはもう、その掃き溜めのような無意味な文字列のことはきれいさっぱり忘れている。

 

 なら機械に書かせればいいじゃないか、というのが現代人の発想である。どうせだれも読まないのであればなにが書いてあろうが変わりなく、つまりこの俺様がわざわざ手を煩わせる必要はない。もちろんわたしも現代人の端くれであり、実際に機械に書かせた文章を提出したことくらいあるし、むしろそうできる状況でそうしないのであればそのひとは現代人とは呼べない。この定義では、現代人とは案外少ないのだが。

 

 とはいえ現代人とて生まれたのは現代ではない。有史以前、人間はすべての文章を自力で書いていた。その中にはもちろん無理やりに引きのばさなければならない文章も存在し、それもやはり人力による作業であった。そしてわたしは現代人のあくまで端くれでしかないので、そういう非文明的な作業もまた、よくやっているのである。

 

 自己言及いただきました。ありがとうございます。お勤めご苦労様でした。

 

 わたしはいま、無駄を再生産している。だれに言われて書かされているわけでもない文章をこうやって引き延ばすこの作業は、機械で置き換えられるか置き換えられないかなどそもそも議論するまでもなく、単に消滅すべきである。消滅すべきだと分かっているのにこうして書き続けているのは、いつしかこれがただの掃き溜めではなく、文章の味だとかなんだとか言われるものに昇華する日が来るのではないか、と、成就しない期待を淡く抱いているからである。