二次元的文章

体裁が変わればひとの目には、同じ文章でもまるきり違って見えてくるらしい。人間の認知とは、なかなか繊細なものだ。

 

作家の中にはこの現象をみずからの仕事に役立てているひともいるらしい。横書きで書いたら構成するときは縦書きにするとかあるいはその逆とか、実践的な創作の方法論が語られる場には、そういう話がけっこうな頻度で出てくる。思い返せばかくいうわたしだって、一時期は校正のために自分の論文をわざわざ印刷し、物理的なペンで赤を入れていた記憶がある。

 

いまのは校正のときの話だが、執筆のときにも似たようなことが言える。文章を書いていると、いまいち面白くならないなぁとかテンポが悪いなぁとか読者はきっと読みにくいだろうなぁとかそういう微妙な感覚に陥ることがあるのだが、その一部はもしかすれば、使っているエディタが悪いことに起因しているのかもしれない。たとえば文字のサイズが小さすぎるとか、一行の長さが長すぎるとか、行間が詰まりすぎているとか。そういう初歩的な原因は、もしかすれば文章全体の自己評価に関わってくる。

 

そういえば、改行というのも不思議なものだ。わたしはこの日記では、一段落ごとに一行の空行を入れることにしている。なにもわたしだけがそうしているわけではなく、インターネット上にある横書きの文章はたいてい、そうなっている。そうなっていないものにだって実は似た工夫はされていて、この日記のような場所でやってみればわかるのだが、改行を挟んだ行間はそうでない行間に比べて少し広くなるようになっている。

 

なぜそんなことをするのか。これはやってみればわかるのだが、横書きで空行のない文章というのはけっこう、読者のやる気を削いでくる。びっしりと詰め込まれた文字に、わたしたちはえもいわれぬ威圧感を覚えてしまう。それを避けるために、筆者は行間を広くするし、空行を入れる。当然の工夫だ。

 

しかしながら。不思議なことに、古典的で正統な縦書きの文章には、そういう工夫は見られないのである。

 

出版される小説はたいてい縦書きだ。段組みはしっかり決まっていて、段落をまたぐ行間にもそうでない行間にも、基本的に同じだけの幅がある。横書きのアナロジーで考えればそこには文章を読みにくくする効果がありそうなものだけれど、べつにそういうことはない。縦書きはそんなことを気にしない。

 

最終的に縦書きになるはずの文章を、横書きで書いたとしよう。それはきっと読みにくいし、読みにくいものを書くのは萎える。けれどそれを縦書きに直せば、きっと印象は変わる。読み書きの場における文章とは、データとしての格納方式が示すような一次元的なものではない。同じデータでも、体裁という二次元の要素が、執筆という活動を変えてしまう。

 

そしてちゃんとした作家が両方の形式を駆使すると言っている以上。執筆という活動とはきっと、そういう二次元的効果とも、折り合いをつけていく作業であるのだろう。