ふたたび歩き出そうと一歩足を踏み出したところで、男は自分がやらかしてしまったことの内容に気づいた。
かれに選択肢はなかった。選択肢があるのだと理解するだけの時間的余裕がなかった、と言うほうが、もしかすれば正確かもしれない。そしてかれは普段、今回かれ自身が取ったような行動に走る性質ではなかった――そうすることが望ましくないときでさえ、自分が冷静に考え抜いて結論に納得するまでは絶対に具体的な行動に取り掛からないせいで、あらゆるものに遅れを取り続けてきた。そのことで生じたいかなる損失をも、かれは頑固に、甘んじて受け入れてきた。
しかしこのときだけは違った。数学のようななにかで、その理由は説明がつく。
男がやったことを思い出していただきたい。かれはフライドチキンを、レターパックと間違えて投函したのだった。間違えた理由はそれらを無意識的に同一視していたからだ。同一視した理由は、それらが同相だからである。
トポロジーの研究者は同相写像のことを考え続けるあまり、ドーナツにコーヒーを注ごうとしてしまうらしい。この寓話が実話に基づいているのか、数学者による自虐か、はたまたトポロジー論をナンセンスに感じている数学外部の人間による創作なのかは定かではない。
とにかく、すくなくともこの男の脳内では、同じことが起こっていたわけである。
その状態のかれの目に、この赤く直方体状でよく目立ち、なによりも左右に合計二つの投函口のついているポストという物体が、どのように見えていたかは想像に容易い。つまり、これにはちょうどひとつの穴がある。普通郵便の投函口から速達の投函口につながる、明確かつ唯一の穴だ。つまりこれはドーナツであり、コーヒーカップであり、
いまフライドチキンが存在するのは、男がいるのと同じ、ポストの外部である。
男はすぐさま、無意識に、そうすることになんの違和感も覚えないまま、まるで道に落とした十円玉を拾うかのような自然さで、今しがたフライドチキンを投入したその投函口に、ポケットの外にある右腕を、思い切り突っ込んだ。
そして、肘がひっかかった。
男は首をかしげるという、人体のトポロジーをまったく変更しない動作をした。
男はなにか位相幾何学的ではない事実に気づき、コートを脱いで地面に置いた。このときのかれには知る由もないことだが、人間の腕というのは意外と細いものである。服をめくりあげた肘は寒さをものともせず、わずかなひっかかりだけで投函口を通過した。男の指があたたかいなにかに触れ、身体をひねってそれをつかんだ。
そして、腕が抜けなくなった。