説明不能を説明せよ

自分にもできる表現とはなんだろう、と考えるならば実際に書いてみればいいし、そうやってある程度納得がいくものができたのならそれこそが得意な表現というわけになるけれど、じゃあそれだけで文章が書けますかと言われると、なかなか厳しいものがある。物語に限らず文章には抑揚とか緩急というものがあって、ひとりの筆者の書く文章のなかでそういった変化をつけようと思えば、筆者は結局のところ、抑や揚や緩や急をすべて使いこなせなければならないからだ。

 

というわけでわたしたちは苦手に向き合わなければならない。小説を書こうとしては挫折してきた経験上わたしは自分の得手不得手が分かっていて、とくに苦手なのは楽しげなシーンとか勢いのあるシーンとか、あるいはだれかの純情とか、そういうものである。

 

統一的に説明するなら、それらはきっと、視点人物が世界を観察しないシーン、ということになるだろう。ひとはなにかを楽しむとき、自分がいま実際はなにを楽しんでいるのかということを意識しない――楽しさとはあくまで楽しさであって、それを説明したり俯瞰しようと試みればもう、そのひとは楽しみから離れてしまっている。アクションシーンなど勢いのある場面において主人公は、世界および自分が置かれている状況を冷静に判断するだけの時間的精神的余裕がない。純情というものは自分自身のうち、自分では言語化も認識もできていない領域にのみ発生するものであり、したがって分析ができてしまえばもう、それは純情ではない。

 

説明できないものを説明すること。わたしがそれらを苦手とする理由は、説明することが不可能なことについてなぜだか書かねばならないからだ、というふうに分析できる。こう書いてみるとなんだか、そもそも原理的に不可能なことをやろうとしているようにすら見える――説明できないものが説明できないのはトートロジーだ――が、なぜかしら、楽しい文章だとか勢いのある文章だとか純情を描いた文章だとかは実際にごまんと存在して、けっこうな数のひとがそれを書けるのである。

 

なら、やってみるしかない。楽しい文章を書くしかないだろう。

 

矛盾はどうやら矛盾ではないらしい。ほどけないように思えた結び目が、ある一箇所を引っ張ればたちまち解けてしまったかのようにきっと、わたしにもそれが分かる日が来る。錯綜したかに見えた因果律は一本の筋となり、単純明快な物語をかたちづくる。いまはまだその方法は分からないけれど、きっとそれは、簡単なことなのだろう。