自動化 ⑭

 未来のある時期、文明なるものがすべて滅びてだいぶ経ったあとにまだ人間が生きていて、廃墟かなにかの中でまだしぶとく生きているとする。その廃墟はどうしてかまだ動き続けており、その目的や機構はもはや忘れ去られて久しいものの、とにもかくにも、動いていることだけは分かる状態にあるとする。

 

 そのときの人類がどうやってそこまで生き延びてきたのか、その点は問わないことにしよう。原始人よろしくかれらは狩猟採集生活をしていたのかもしれないし、成り立ちも仕組みも目的も分からない文明という機構が主を失ってもなお産出しつづける生活必需品に頼っていたのかもしれない。そうだとしてなお、かれらがそれらの品物を適切に、すなわち過去の文明人の想定通りに使っていたのかも、また定かではない。

 

 あるいはかれらはこれまで、およそ生活というものを行っていなかったのかもしれない。過去のある時期に生殖活動そのものが自動化され、遺伝情報のランダムな組合せから定期的に人間が出てくるような機構が完成していたとすれば、かれらはただ、そのとき機械的に生み出されたばかりの存在かもしれない。

 

 それはどうでもいい。とにかくかれらは文明時代から数えてはるか後世の人間であり、それが明確な教育の断絶によるものにせよ、ゆるやかに縮小再生産されつづけた伝承の忘却のせいにせよ、かれらは文明世界のことをなにひとつ知らない。

 

 そういう人間のことを想像してみよう。

 

 いまだ動きつづける古代文明のことを、かれらはどう思うか。わたしたちに想像できる態度は、以下のみっつである。

 

 ひとつめ、それが人間の作り上げたものであるということに、まったく思い至らない。

 

 ふたつめ、それが人間の作り上げたものであるということには気づいているが、あまりに複雑すぎるから、理解しようと試みるのを諦めている。

 

 みっつめ、それが人間が作り上げたものであるということに気づいており、複雑さと高度さを感じつつ、その一部を理解したり、再生産したり、改造したり、利用したりしようとする。

 

 そのどれが多数派かはどうでもいい。

 

 それらはなぜ、自然な態度なのだろうか。

 

 現代に生きるわたしたちがまったく未知の文明を見たなら、きっとそのみっつのいずれかの態度を取るだろう、と想像されるからだ。

 

 そうでなければ物語にはできない。実質的な原始人が高度な文明を見て、その巨大な機構を不思議に思うわけでも畏敬の念に駆られるわけでもなく、ただ素通りするか破壊してまわる、という極めて自然な態度を、わたしたちは同じ有史以降の人類として、受け入れられない。