可能性の話 ⑥

 あの人工知能はあのとき、いくつかの常識を根底から破壊した。機械の書く文章が人間よりも優れている場合があるという観念は、はじめてサイエンス・フィクションの領域から外に出て、現実のものになった。自然言語処理という技術分野の一部は、これまでずっと目指してきたものがかれらのものとはまったく異なる類の手法によっていとも簡単に実現されてしまう、という事件を目の当たりにして、なすすべもなく打ちのめされた。

 

 同時にそれは、その他ほとんどの常識を破壊しなかった。冷静に考えれば影響などあるわけがないと分かるはずの、言語モデルという科学技術とまったく無関係な自然の摂理は、もちろん破壊されなかった。太陽は今日も東からのぼり、酷暑は避けられず地震は予知できず伝染病は流行り、企業のマネージャーは人手のやりくりに頭を悩ませ、投資家はチャートを眺め、コンビニやスーパーのレジには留学生のアルバイトが並び、わたしたちの少なくない割合は、来るべき確定申告を前に憂鬱な気分になっている。言語モデルが変えるわけのない、一般的な社会の仕組みだ。

 

 そういうものまで疑われていたのがあの時期だった。あの技術の呼びかたとしてわたしたちが採用したのは、大規模言語モデルという実態に即したものではなく、人工知能、というあいまいで壮大なものだった。そしてわたしたちは、その呼び名の持つ根源的なあいまいさの中に、むしろ万能性を見出していた――機械が人間活動のすべてを代行する世界という、ユートピアディストピアのふんわりとしたキメラ体。

 

 言語モデルはどこまで行っても、言語活動を代替するだけのものである。そして自分自身の生活を思い返せば簡単に分かることだが、人類活動とはけっして言語活動のことだけではない。外を歩く。美味しいものを食べる。ふかふかのベッドで寝る。それらは全部、まったく言語的な活動ではない。けれどもなぜか、わたしたちはそのことを忘れていた。

 

 なぜ、忘れてしまっていたのだろうか。

 

 それはたぶん、言語というものにわたしたちが与えている神話的な役割が原因になっている。

 

 知性は言語から生まれる、とわたしたちは理解している。すべての思考は言語を通じて行われており、人類が思考できるのは言語を持つからだと考えられている。その観念はさすがに行き過ぎているとわたし個人は思っているが、一般的にはそうではない。そういうわたしとて、言語を用いた思考というものが思考全体の中でかなりの割合を占める、ということを否定するつもりはない。

 

 そして逆に言えば、言語ができるというのはそのまま、思考ができるということでもあった。そして思考ができる存在とはそのまま、人類と同等の文明を築くことができる存在のことであった。

 

 だからわたしたちは、言語を扱える機械は自力で文明を発展させられる、というふうに、一足飛びに理解しようとしてしまったわけである。