可能性の話 ➄

 大規模言語モデルの出現に驚き、可能性という熱に浮かされたひとたちの一部は、そのモデルを使ってなにか有用なものを作ろうと試みた。それらのほとんどは結局、ただ普通にオリジナルのモデルを直接叩くのと大差ない結果しかもたらさなかったわけだが、当時のわたしたちに知る由はなかった。

 

 いや。思い返せば、そう予測することくらいはできたのかもしれない。確信し断言するまでには至らないまでも、かれらがなにも生まないはずだと直感する根拠はあった。というのも、考えてみれば当たり前の話ではあるのだ。かれらは表層の部分をいじっているだけで、言語モデルの中身を直接触るわけでもなければ、理解しているわけでもないのだから。

 

 ではなぜ、わたしたちはかれらの失敗を確信できなかったのか。小手先の工夫では本質的な革新は生まれないという世の中の普遍的な摂理を、わたしたちはなぜあのとき、即座に思い出すことができなかったのか。

 

 それはあのころの言語モデルという対象が、すくなくともわたしたちの認識の中では、普遍的な理解のなにひとつ通用しない相手であったからだ。

 

 たしかにあれは常識を変えた。それは認めざるを得まい。

 

 機械があれほど正確にことばを操れるとわたしたちは思っていなかった。なにせあのころのわたしたちは Google 翻訳の粗雑な文章や、少しでも複雑なことを聞こうとすると「すみません、よく分かりません」と録音音声で返してくるポンコツアシスタントこそが、会話可能な人工知能の最先端だと信じていた。あの言語モデルはまさしく黒船であり、既存の常識は通用しなかった。

 

 そしてそのときわたしたちは、忘れていた。あまりの衝撃に、気づくことを拒否していた。やつが破壊した常識はたったひとつ、機械は自然言語を上手に操ることができないという前提だけだ、ということをだ。

 

 だからわたしたちは、あのとき粗製乱造された派生アプリケーションたちに間違った期待を寄せてしまった。表面的な理解では本質的に良いものは作れない、という原則をもあの人工知能が破壊してしまっのだ、とわたしたちは誤認したわけだ。

 

 ほかにもあらゆる常識が、一度根底から疑われた。そしてそのほとんどが、あのエージェントはべつにその常識を破壊したわけではない、という、当たり前の結論へと還っていった。

 

 だれもが常識を忘れていたわけではない。常識を叫ぶ声がなかったわけではない。だがそう叫ぶひとびとは、頭の固い守旧派として扱われた。その意味であのころの常識とは、常識を疑うということのなかにあった、と言えるかもしれない。あの革新的な知能が社会のすべてを破壊して作り替えるだろう、と予測することこそが、まさしくあのころの一般的な考えかたであった。