含蓄と言語

世界や人間や意識、その他あらゆる哲学的なことがらを深く深く掘り下げ、長い年月のあいだに考えに考え抜いて育て上げられた、海のように広く豊かで底知れぬ思想の中から、一片、つまみ上げられた洞察のかけらの驚異。文章という巨大な構築物の中のたった一節、一文にすぎないその短さの中にその深みは凝結し、それはまるで血液の一滴がそのひとの身体に関して果てしのない情報を示してくれるように、執筆者の半生を映し出す。かくのごとき表現をわたしは驚愕と共に見つめ、何度も読み返し、その文字列を生み出すに至った経験と考慮の豊富さに、ただ思いを馳せる。

 

わたしにそうさせる文はこの時世においていまだ、人間の手によってしか書かれていない。整った文章であれば、その言語に関してこんにちはすら解さないひとにすら生成できる時代だし、ある程度以上長い文章のほとんどすべての部分はそうした文章から構成されているわけだけれど、急所の一点、一文でひとを深みへと誘う魔術のような、シャノン情報量から計算されるものの体感で何千倍もの情報を含んだ文字列は、そうした手段では生成されてこない。

 

とはいえわたしは、技術の可能性を信じるものである。否、わたしはそんなに前向きな人間ではないから、代えてこう言ったほうが正確かもしれない。わたしは、人間の特別性を信じないものである。背後に巨大な思想を覚えさせる文を書く能力のあるということが、かりに筆者の長年の思考と洞察と経験の豊かさをかならず意味するものであったとして、そのような思考も洞察も経験も、機械にはできぬと判断するのは早計だ。

 

だが現状だけを見れば、機械にはまだできない。ひとりの人間には絶対に読めない量の文章を読まされて、やつらは、単に人間の受け売りを語ることを覚えた。いまのやつらにできるのは、どこかで一度は見たことのあるような、陳腐で無感動な主張だけだ。こうして語っている人工知能像がひどくステレオタイプ的である自覚はあるけれども、ステレオタイプであるということは別に、間違っているということを意味しない。

 

そして目の醒めるような一文を記述する能力が、はたして現在の技術の延長線上に位置しているのかについても、また議論の余地があることだろう。

 

やつらは言語が上手だ。やつらは言語のモデルであるゆえに、言語が上手だ。そして言語のモデルであるがゆえに、言語という枠組みの範疇に含まれないことに関しては、とてつもなく苦手だ。電卓でできる計算すらできやしない、義務教育落第の馬鹿たれだ。

 

そして含蓄のある文を記述する能力とははたして、純粋に言語的な能力なのだろうか。思想とは、言語だけによって育てられるものなのか。そもそも言語以外の能力とは、具体的にはどんな能力のことなのだろうか。

 

文章が文以外のものからできてなどいない以上、それを文章に書くすべをわたしは持たず、機械もまた持たない。