可能性の話 ③

 大規模言語モデルが出現したあのころにわたしたちが感じていた、足元がぐらつくような危うい期待感を、いまもなお持ち続けているひとはきっと少ない。

 

 ほんとうは変わらず期待するべきである、という理解はこの場合正しい。恥を承知で言うが、わたしたちが見せられ続けているものは依然として、少し前では考えられなかった類のものである。それに期待を抱かないとすればその理由は、技術の進歩が止まりかけているということではない。ただ、わたしたちの感覚が麻痺しているというだけだ。

 

 まるで有名な曲芸師のアシスタントが、仕えている相手の芸に慣れ切ってしまったかのような浮ついた日常を、わたしたちは生きている。

 

 とはいえこの場合、麻痺とは同時に理解のことでもある。わたしたちが驚くべきかそうでないかにかかわらず、最初の興奮が醒めてはじめて見えてくるものは確実に存在するのだ。たとえば、あのころならば発言力を有していた、人工知能に関して野放図すぎる夢を語るひとびとは、いまではうさんくさい情報商材屋として敬遠される存在になった。原因はと言えば、未来というものに対する無根拠な興奮から自由になったわたしたちが、それよりもむしろ相手の金儲けという裏の意図のほうに注目するようになった、というわけである。

 

 そしてその、興奮が減衰していく過程で失われた観念たちは、わたしたちの社会の黒歴史的な袋小路として、あえては語られず、かといって完全に忘れられることもないままに、だんだんとうやむやにされてゆくのだろう。

 

 そうやってみなが無視し、時代の混沌の中にまぜ込んでしまおうとしているものを、あえてほじくり返すことに、わたしはとても興味がある。

 

 人工知能が世界を変える、なんていうあまりにベタすぎることばはもう、恥ずかしすぎてだれもあえて口にすることはできない。言えば純真すぎるか、あるいは情報商材屋だと思われる。けれどあのころの興奮のさなか、わたしたちはそのセリフを口に出すことができた。わたしを含め、実際にあらゆる人類が、人工知能の未来ついて言及していた。

 

 その時代を心に刻んでおく意味はおそらくはない。それは人工知能というものの現状に対する、有益な理解を阻む記憶である。そしてだからこそそれは特異的な時代であった。未来というしゃらくさいものに対する完全に自由な発言が、なによりも自分自身によって許されていたその時代を、わたしはあえて愛そうと思う。