可能性の話 ④

 あのころ、あの言語モデルの出現を見て、ひとびとは本気で新たな時代の幕開けを予感した。そしてわたしたち、つまりは世の中の大多数を占めている、最先端の機械学習の論文を読むことができないためにその進展に直接寄与することのできないひとたちは、科学の発展への貢献の代わりとなる態度でその希望に応えようとした。

 

 ひとつの態度は、超新星のごとくあらわれたその新しいモデルの使いかたを考えることであった。より意識の高い言いかたをすれば、社会実装を模索する、というやつである。

 

 身分や経歴にとらわれない市井のひとびとが、それぞれ思い思いの未来への希望に満ちあふれながらサービスを展開した。あるいは突然のバブルに興奮したグレーゾーンの詐欺師たちが、新しく生まれた小金稼ぎの手段の持つ莫大な可能性に没頭することになった。

 

 ほとんどの人間はそうではなかった。希望は同じように抱きながら、なにか新しいものを開発する能力も、手を動かす気力も持たなかった。それ以外の選択肢は結果的になかったとはいえ、かれらは単に現状を静観することを選んだ。それでも技術の流れを追いかけることはやめなかったから、かれらの中でもまだ行動力のある類のひとびとは、新しい類の詐欺師に騙されることになった。

 

 そして最初から行動力がなく、巨大な希望をさらに上回るスケールの猜疑心や冷笑趣味を持ち合わせているわたしたちは、詐欺にも引っかからなかった。

 

 それが悪いというわけではない。いっときの興奮に流されていろいろと動いたかれらがなにかを成したかと言えば、べつにそういうことはない。さまざまな派生サービスが考えられてなお、わたしが結局いまでもオリジナルのモデルを使っているのは、わたしの用途ならそれで十分だからだ。素人が技術の中身を知らずに作った小手先の改造品が結局とくに役に立つものではなかった、という当たり前の結論は、だれもそうは言わないながらも、着々と人口に膾炙した理解になってきている。

 

 逆に言えば、それが役にたつと期待されていた時期があったわけだ。素人の手遊び的なラッピングが、あの基盤技術の有用性を本気で引き上げるという荒唐無稽な物語が、ある程度現実味のある仮説として信じられていた時代があったのだ。それはまさしく混沌としかいいようのない状態であって、そのもとをたどれば、社会の変貌という集団幻覚にとらわれた、興奮して手のつけようのなくなった民衆へと行き当たる。そしてわたしもあのころ、自分から行動する意志などまったくなかったにもかかわらず、間違いなくその一員であったのだ。