可能性の話 ②

 ……というような話を、あのときは全員が考えていた。

 

 あの革命的な知能が世に現れたころの話だ。

 

 いまでこそ、やつらは当たり前の存在になった。その知能に対するわたしたちの理解は、当時にそう予言されたとおりの経過をたどり、最初におとずれた興奮は薄れた。わたしたちを支配しているのはすでにやつらが現実のものであるという認識であり、莫大で野放図な期待感や、不安交じりの夢見心地ではなくなった。

 

 しかしながら、それらは忘れ去られたわけではない。忘れられるほどの時間はまだ経ってはいない。したがって、あのときにわたしたちが見た夢は、いまでもはっきりとわたしたちのなかに残っている。ふたたびの革新が起これば、わたしたちはあのころとまったく同じ類の驚きをふたたび思い返すことができる。

 

 そして同時に、あのときに感じた、ひとという存在の根本がぐらつくような感覚も。

 

 現代という時代が、ひとが文章を書くという行為を完全に代替してしまったという恐ろしくも素晴らしい可能性を、あのときわたしたちははじめて、現実のものとして認識した。そして人類の仕事の、特異性の、あるいは存在意義の少なくない割合が機械によって無に帰すというケースに対し、真剣な対応を迫られていた。

 

 もっとも、完璧に信じていたひとはごく少数だったかもしれない。信じていると主張するひとのほとんどは、その認識を活用していかに金を儲けるかということに執心していただけだったかもしれない。これまでの先端技術と同じように、結局は落ち着くべきところへと落ち着くのだろう、という冷めた理解を、心のうちで温めていたひとが多いのかもしれない。

 

 けれども同時に、まったく想像しなかったひとも少ないはずだ。あの人工知能が世界をまるきり変えてしまうかもしれないという可能性を。それはもっとも先鋭的な予想に過ぎないが、やはり妥当な予想のひとつではあった。

 

 新しい知能に対する理解はあのとき、混沌としたものに過ぎなかった。どう使えばよいのかだれも分かっていなかった。だがその混沌が一年も持つとだれが断言できただろうか? この世界を根底から変えてしまうには、世の中のだれかひとりが、あの種の知能を最高の方法で使うためのメソッドを確立してしまうだけでいいというのに?

 

 いまでこそ、その恐怖はお門違いだったと分かる。正確に言えば、そういうふうに理解されている。プロンプトエンジニアということばはいつの間にか消えた。そう呼ぶに値する人物が、ついにだれも現れなかったから。

 

 けれど当時、わたしたちは多かれ少なかれ、平静を失っていた。