怒りと規定

 ここで怒りを表明したことは、思えばそんなにない気がする。

 

 なかなかいいことだ。それはわたしが、この三年弱を平穏に過ごしたことを意味しているからだ。なにを書いてもいい場所に怒りをあまり書かなかったということはそのまま、わたしが現実の生活で、あまり怒る機会がなかったということを意味している。

 

 それ以上にいいこともある。怒りを書かないということは、わたしが現実で怒らなかったということ以上の意味を持っている。いまではそれが、すごくよく分かる。

 

 繰返し書いてきたことだが、文章は読み手以上に書き手を作り替える。書くという行為には、自分の内部にあるものを外部に伝えるという効果や、内部にあるものをあらためて整理するというだけではなく、文章という形式の織り成す流れに身を任せることを通じて、新しい自分を獲得する効果があるのだ。その力にこの三年弱わたしは泳がされてきたし、変えられてきた。なにかを書いている限り、その変化は止まらないだろう。

 

 ではそこでわたしを流すものが、身の裡から湧いた怒りだったらどうだろう。最初はいっときの感情に過ぎなかったその怒りは、わたしを怒りの方向へと押し流す。するとどうなるか。怒りは定着する。すると新たな、より強い怒りが生まれる。そしてまたそれを書き、定着する。正のフィードバック機構だ。最悪の場合、わたしは最終的に、世の中のあらゆるものに怒りを向ける人間になってしまっていたことだろう。

 

 極端だと思われるかもしれない。だが、掲示板に書き込んでいるうちにそうなってしまったとしか考えられない人間が、このインターネットには何十万人もいる。

 

 そうならずに済んで、ほんとうに良かった。

 

 書くのは危険な作業だ。とりわけ、自分の精神状態がまともでないときには。その状態が定着してしまう可能性があるからだ。

 

 だが、まともでないときこそ、ひとは書きたくなってしまう。

 

 思えばわたしにとって、書くことの原点はそこだった。悩める二十歳で書いた、ほんの短い文章。あの文章はおそらくそれ以降のわたしのかなりの部分を規定している。そんなことになるなんて、当時はまったく思っていなかったが。

 

 だがそれは同時に救いでもあった。あのときに見えた光とは、自分自身を規定したという事実の発する輝きであって、その動力源は間違いなく、書くという行為でもあったのだ。

 

 つまり、書くのは諸刃の剣だ。良くも悪くも、自分というあいまいさを収束させてしまう。

 

 そしてあのとき、その収束が良い方向に向かって、ほんとうに良かった。