比喩 ⑪

 比喩には芸術的な側面があるとはいえ、それでもなお情報伝達の手段である。だからうまく伝わらなければ、それは失敗した比喩だと言わざるを得ない。そういうたとえは避けるべきだし、避けるのに失敗すれば、書いたやつが悪い。

 

 しかしながら同時に、比喩とはあいまいで、説明のつかないものである。説明がつく比喩もあるが、いまはそういう話をしているわけではない。わたしたちは説明がつかないからこそ比喩に頼るのであり、かりにその比喩がうまく伝わらなかったところで、伝わらない理由を論理的に説明するのは不可能だ。なにかの比喩が失敗するであろうことをあらかじめ知るというのもやはり、とうてい無理な話である。

 

 というわけで比喩は、一定の確率で失敗する。使うひとの言語センスや受け手との相性によってその確率はだいぶ変わるだろうが、けっしてゼロにはならない。同様の理由で、全員に確実に伝わる比喩というものもまた、望むべくもない。

 

 となると目指すべきは最大多数に理解される比喩である。どのような比喩が理解されやすいか、ということにはおそらく傾向があり、インスピレーションを伝えるにもきっと、その傾向とやらに沿っていると伝わりやすい、というようなことがあるのだろうと思われる。

 

 しかしながらその傾向とやらはきっとあいまいであり、正確に書かれた教科書はどこにもないだろうから、それをあらわすのにもまた、きっと比喩が必要になる。

 

 となるとまたコミュニケーションの問題が発生する。つまり、比喩でしか表現できないものを表現する場合において、確実に成功する比喩というものは原理上存在しないのだ。高確率で成功する比喩というものはもしかすれば存在するが、その性質を表すものもまた比喩である以上、それをどうしても理解できないひとはかならず現れる。かくして比喩の技術とはけっして、人類の共通知になりはしない。

 

 というのが、わたしが比喩ではない理屈を弄して導き出した結論である。こんな問題に理屈は通じないから、つまりわたしは間違っている。

 

 理屈の手に負えないことが原理上明らかになっているものをいまわたしは扱おうとしている。どう扱うのが正しいかと言えば、もちろん、比喩である。比喩はけっして万能なわけではないが、理屈には扱えないものを扱えることはたしかである。目の前の事象が理屈を受け付けないと分かっているいま、最初に試すものとしては一番よい。

 

 そして問題は、わたしのなかにはまだ、比喩の技術というものごとについて、比喩に落とし込めるようなイメージが醸成されているわけではないという点である。