比喩 ⑨

 なにかを正確に伝えるうえで比喩こそが最良の表現である、という状況は、思っていたよりも頻繁に発生する。

 

 信じていたよりも、と言うのが正しいかもしれない。というのも、わたしは論理というものの表現能力を過信していたからだ。

 

 わたしの世界観において、言語化とはつまり論理化のことであった。すなわち、世の中のものごとはすべて、最終的には論理的に説明されうるものであって、比喩や非言語的な言及へと頼らなければならないのはまだ、筆者がそれについてまだはっきりと理解できていないせいだろう、と考えていたわけだ。

 

 それは間違っていたといまでは認識している。比喩による表現は言語化といういとなみのゴールたりうるものだと理解している。そしてそう考えると、わたしは長きにわたって、比喩を使えば簡単に説明できることを論理で説明しようという無為な試みを続けていたことになる。

 

 ただまあ、過ぎたことはいい。それに気づけただけで十分だ。

 

 話を変えよう。比喩とはある種のものごとについて、もっとも本質的な表現でありうる。しかしながら世の中で用いられる比喩の少なくない割合は、そういう目的で用いられるものではない。

 

 比喩とはもっと気楽に使えるものでもある。厳密に説明するのが難しい対象を説明したいときに比喩はたしかに強力だが、べつに必ずしも、簡単な対象の説明に使ってはいけないわけではないのだ。そしてそうやって使われる比喩は、わたしたちの把握できる概念の集合をあらたに拡張することこそないが、やはり面白い表現でもある。

 

 そのひとつが、存在するものを存在するものでたとえる、という技法である。ざっくばらんに言えば、うまいことを言う、ということである。

 

 たとえばこんな状況がある。だれかが日焼け止めを忘れて海に行き、当然のごとく焼けまくった。二日くらいすると背中じゅうの皮が剥けてひどい思いをした。このことは単に「日焼けで背中じゅうの皮が剥けた」とかなんとか表現することができるし、それはきわめて簡潔で正確な表現である。けれどそこに比喩を使ってはいけない理由はない。

 

 たとえばこんなふうに、だ。背中の皮が、トウモロコシみたいに剥けた。

 

 これがうまい表現かどうかの判断は読者にお任せしよう。とりあえずいまとっさに思いついたのがこれだったというだけで、もっとうまい言いかたはあるかもしれない。とはいえわたしの期待する範囲でこの表現は納得感のある表現であり、これを読んだ読者にすごくよく剥けたんだなぁ、と感じさせるという意味で、正確な表現よりもよい表現になる状況がある。

 

 そういう簡素な比喩は、簡単に文章に彩りを与えるという点で、やはり便利な表現である。