比喩 ⑩

 簡単な比喩について、語るべきことは多くない。それはただ単に面白い表現以外のなにものでもなく、わたしたちが表現できることの範囲を広げてくれるようなものではないからだ。

 

 語るべきことをわたしがそんなに持っていない、というほうが正確かもしれない。その理由はべつにわたしがここでそういう比喩を使ってこなかったからではなく、むしろはんたいに、よく使っているということに起因する。必ずしも使う必要のない比喩を文中にわざと使うことがその文章に与える役割がどのようなものであるか、わたしはそれなりに分かっているつもりだし、その理解に基づいてわたしは書いてきたつもりである。

 

 その理解がなんであるかについて、深くは語るまい。言うとすれば、そういう比喩が与える印象はしばしばポップなものであるから、それがことばの表現能力を拡張しない以上、使うべきでない状況も多々ある、ということくらいか。

 

 とにかく、もとの話に戻ろう。あいまいに心のうちに存在するなにかをばっちりと言い当て、厳密な表現に比べてわたしたちの表現能力を拡張してくれる、難しい比喩についての話だ。

 

 そういう比喩は分かりやすい必要がない。ここで「分かりやすい」というのは、数学的なまでの厳密さという意味での分かりやすさ――すなわち、より正確なことばによる説明可能性のことである。逆に言えば、分かりやすい説明が不可能な状況で真価を発揮するのがこの手の比喩である。

 

 この文脈における最高の比喩とはつまりこういうことだ。分かりやすくないが、伝わる。

 

 最高の比喩を見た読者はなにかの情景を受け取り、だがなぜそう感じたのかは分からない。しかしながらそれでも、受け取った情景は筆者の意図した通りのものである。どうしてそんな不思議なことが起こっているのかは説明がつかない。ことばというものの深いところにあるイメージの力がそうさせている、としか言いようがない。

 

 というのが、まあ理想論である。そして実際の比喩はかならずしも、そこまでよくできていない。

 

 あまりうまくはなかった比喩――すなわち、おなじ情景を共有する目的で書かれ、だがその情景を読者の脳内につくり出すには至らなかった比喩。そういうものは確実に存在する。そしてそれは単に、わかりにくい比喩である。情景が浮かんでこないくせに、情報の正確さにも欠けるからいくら考えても言いたかったことがなにも伝わってこない、とても残念な比喩である。