比喩 ⑧

 なにか別のもののたとえとして特定のことがらを使うとき、その特定のことがらについて、作者がよく知っていて書いているとは限らない。

 

 読者が知っていることも期待されない。というか、読者もまた知らないということがむしろ、暗黙のうちに仮定されている場合すらある。比喩による情景の伝達を作者と読者という二者間での共通理解の構築であるとみなすのであれば、そこで構築される、ないし構築されることが期待される理解とは、たとえに使われていることがらについてはよく知らないという前提にもとづいた、自分勝手なふたつのイメージのすり合わせである。

 

 それには仕方がない部分もある。比喩とはたいてい、オーバーな表現だからだ。はらわたが煮えくり返るような怒り、とわたしたちは簡単に言うが、実際にはらわたが煮えくり返ればひとは死ぬ。はらわたが煮えくり返るということが真剣な意味でどういうことなのか、分かっている人間はだれもいない。

 

 そして興味深いことに、表現に用いているのがだれも経験したことのないことがらであるのにもかかわらず、比喩は文章を極端にわかりにくくはしない。それどころかむしろ、分かりやすくなっている場合が多い。はらわたが煮えくり返る、と言われれば、単に「怒り」と言われるより、それは肉感のあるリアルさをもって伝わるのである。

 

 なかなかに、不思議な話である。

 

 比喩というものの可能性について、この話は非常に大きなものを示唆している。なにかをなにかにたとえるとき、たとえるなにかはたとえられるなにかに比べて具体的な対象でも、身近な対象でもある必要はない、というわけだ。そのなかになんらかの共通のイメージが発生すれば、それで比喩は成功なわけである。

 

 そういう意味では、比喩とはまったく意味不明でも構わない、ということもできる。

 

 なにかあいまいなものを表現するとき、ときに比喩は考えうるかぎりもっともシンプルな言語化となる、ということについては数日前に触れた。この事実と、今日の結果とを組合わせてみよう。比喩というのはもっともシンプルな表現であり、それは意味不明でも構わない。

 

 それはつまり、脳内にもやもやと漂うあいまいな概念はときに、完璧かつ意味不明な比喩によってはっきりととらえられる場合がある、ということである。

 

 ある種の文脈において、比喩的な文章はしばしば忌避される。それはどうしてもあいまいであり、個人の経験によって解釈が変わり、共通理解の醸成を難しくするものだからだ。けれども世の中にはきっとたくさん、比喩こそが最良の表現であるような概念がある。おのおのの脳内に、そういうものはたくさん浮かんでいる。

 

 だからそれが忌避されない文脈においては、比喩をもって言語化が完了したとみなすことを、これからわたしはいとわないことにする。