早起き

 体内時計が謎の真面目さを取り戻したのか、なんだか妙に早起きした。

 

 自堕落な大学院生にとって、「朝起きる」、という表現は比喩的なものである。「朝」という単語には「起きる」という単語につなげるための枕詞のような意味合いがあって、「朝起きて○○する」という表現の重点は、実際にそれが朝であるという言明にはおかれていない。だからわたしのように、起きるのがだいたい正午を回ってからという人間がだれかとの会話の中で、まったく自然な流れで「朝起きて……」という表現をはじめたとき、わたしたちはそれが厳密には嘘であるということに一抹の罪悪感を抱えながらも、まあそれくらいはいいか、単なる表現のアヤにすぎないよね、というふうに、そこらへんの厳密性はなあなあで済ませて普通に話を進めるわけである。

 

 ところが実際に起きたのが朝だ、ということになると状況はとたんにややこしくなる。天地がひっくり返って――あるいはわたしの知らぬ間に地球が四分の一周くらい逆向きに回転して――そんなことが起きたとして、まあ今日はそうなったわけだが、とにかくそんなとき、わたしの比喩は比喩ではなくなってしまう。わたしは比喩ではなく文字通りに朝起きたのであり、それは「本当に猿が木から落ちる現場を見た」だとか「本当にマックで女子高生が政治談議をしていた」とかいうのと同じく、表現のアヤだとか戯画の中の風景にすぎなかったはずのものが本当に現実になってしまったという、奇跡的な珍しさの領域に属するものになる。陳腐さの皮をかぶったそういう奇跡を前にして、だがそれを直接的に表現すればだれしもがただの比喩であると過小評価してしまうことが分かり切っているとき、ひとはだれしもきっと、それが現実であるということをことさらに強調して言わなくては気が済まないような気がしてくる。

 

(文字通りに)朝起きることが良いこととは限らないということは、長年自堕落を続けていればよく分かっていることだ。まず第一に、睡眠時間が足りなければ、日中眠くなる。よく寝れば進むはずの作業も進まず、結局はいつもどおり昼まで寝ていたほうがマシだった、ということになりかねない。そして第二に、わたしは眠くなればすぐに昼寝を始めてしまうから、朝起きたところで結局、一日の活動時間は増えないばかりか、むしろ減ってしまうということもありうるわけだ。

 

 世の人々が言うように早起きが良いことだとは、わたしはべつに思わない。できることなら早く起きたほうがいいとも思わない。だから早起きしたことをわたしがこうして書いている理由は、純粋に珍しいことが起こったから共有したいという、ただそれだけのことである。