論理的描写

ほとんどの文章がそうであるように、情景描写もまた情報伝達の道具である。けれどその情景が架空の場合、そこで伝達されるのがいったいどういう情報なのかと考えれば、起こっていることはすこしばかり、奇妙に見える。

 

情景がどこで生まれるかに注意しよう。架空の景色である以上、それはもちろん作者の頭の中にしかない。頭の中にしかないものを作者の五感は知覚できないから、物語の中で視点人物が見た景色とは、そもそもだれの目にも見られたことのない景色だ。そもそも人間の頭は具体的な風景をことこまかに思い描けるようにはできていないから、作者にはきっと、その景色を見ている自分を想像してみることすらできない。

 

となれば情景描写とはどのような意味でも、だれかが感じ取った情景を直接描写したものにはなりえない。描かれようとしている情景はこの世に存在しないし、作者の頭の中にも存在しない。そのかわりに作者にはことばという手段があって、見ることも聞くことも想像することもできない具体的な情景を、ことばを使って書き表す。

 

そう考えれば、情景描写とはこんないとなみだと理解できるだろう。情景とは、最初から描写されるべき対象として存在するのではなく、ことばによってはじめてかたちづくられるものなのだと。情景を描写するという考え方は順序が逆で、あくまで文字列としての描写が先にあり、それが作者と読者両方の心の中に、景色をかたちづくるのであると。

 

かくして情報伝達としての情景描写は、単に文字列を伝えているだけに過ぎない。具体的な情景を思い浮かべるという作業は、作者と読者が独立に、個別にやる。描写の中のアイテムはすべて書くことによって出現し、そしてそれは、読むことによって脳内に景色を成立させるという、読者がいつもやっているいとなみときっとそう変わらない。

 

そう考えてしまえば、情景描写はそれほど難しくないのかもしれない。書くものは景色ではなく、あくまで文章に過ぎないのだから。描写を書き始めようとしてもまず景色が思い浮かばない……と言った悩みに、わたしたちはきっと付き合う必要がない。文章の進行上の必要性から、そこで醸し出しておきたい雰囲気を決めれば、あとはちょうど部屋の間取りを決めるように、必要にあわせてことばを配置していけばいいのだ。

 

景色とは本来不要なものだ。全員を集めた部屋の壁紙の色が白だろうが黒だろうが、それがトリックの一部である場合を除いて、探偵の推理はまったく問題なく成立する。それでも壁紙の色を決めるのはあくまで物語の雰囲気上の要請からであり、したがってわたしたちが想像すべきなのはその部屋が具体的にどうなっているかではなく、どうなっているべきであるかに過ぎない。そしてそれは、あくまで論理的推論の帰結として、じゅうぶんに決定可能なものに違いない。

 

情景描写を論理で捉えよう、という試みがかくして成立する。正確に言えば、成立してくれるとわたしは願っている。そして本当に成立するなら、わたしはもう、情景を怖がらなくてよくなるかもしれない。