オブジェクティブ ②

 五光年の彼方のステージらしき半平面で、点たちは躍る。

 

 境界線の向こうでは別の点たちが蠢き、同じリズムで色とりどりの光の点がちらつく。ひとりの人間の振るうライトから発されたその光は、最初の瞬間から無秩序な拡散をはじめ、ぼんやりと地球大気に拡散して消える。それはあくまでステージ上のアイドルに向けられた光、あるいはかれら自身のために発された光であって、通常であれば、ほんの数百メートルの距離にしか届かない。だがそのほんのわずかな一束だけは五年ものあいだ宇宙空間を旅し、宇宙望遠鏡のレンズで拡大されて、ぼくたちの目に届く。

 

 音は届かない。音の進む速度は光よりはるかに遅い。あまりに遅すぎて、会場の前と後ろとのあいだですらラグがある。その遅さを示す格好の映像として、点たちは異なるタイミングで揺れている。五光年は光では五年だが、音では四百万年以上かかる。

 

 ならこの場で四百万年待っていれば彼女たちの声が聞けるのかと言えば、もちろんそんなことはない。光と違ってそもそも、音は真空中を旅することができないのだ。だから、どんなに高性能なマイクを用意しようが、ぼくたちがこの場で何十兆年待っていようが、彼女たちの生声を聞くことはできない。

 

 彼女たちの姿はいま、この宇宙にはっきりと存在している。だが声は、もう。

 

 だからいま両耳から聞こえているこれは録音である。こればかりは仕方がない。

 

 姿だってある意味では存在していない。下から見た姿や横から見た姿は、地面や周囲の建物に当たって、生成されて数マイクロ秒のうちに消えた。いっぽうで上半分から見た姿のほとんどは残されており、衛星や小惑星に当たって消えたごくごく一部を除き、特定の半球面に存在し続けている。

 

 そしてぼくたちはいまそのごく一部を消費して、色あせない楽しみに変換している。同心円を描いて広がる光の到達点。その意味でぼくたちの経験は、あの黒い点たちとまったく変わらない。たしかに真上からの視界では彼女たちの顔は見にくいけれど、見にくいのは地上のオタクだって一緒だろう?

 

 ぼくたちが見ているのは録画ではない。音こそ録音だが、光は本物のライブである。同じ光子は二度とぼくの網膜にたどり着かない。だれの網膜にも焼き付かない。

 

 だからぼくたちは感じられる。一度きりの臨場感。一体感。見逃せば金輪際失われてしまう光景のすべてを持って帰りたいのに、情報量が多すぎて一度にはとても処理しきれず、贅沢な焦燥が身を襲う。

 

 と、強がってみたいところだけれど。