補足

文章に厳密さを求めなければ気が済まないわたしたちの悪い癖を、どうにか味だとか深みだとか、そういう都合のいいものに転換することはできないものだろうか。

 

なにごともやりすぎれば面白くなるということで、昨日は厳密にしすぎるのを試してみた。行間を可能な限り削減し、論理展開を正確に記述し、解釈の余地をとことん削った。結果として、ただ読みにくいだけでなんの面白みもない文章が出来上がった。失敗である。

 

その程度であきらめるわたしではない。今日は別の方向性を試してみよう。最初から厳密にしようとしたから昨日は失敗した。今日はまず普通に書いて、そのあとで細かすぎる補足を入れる。そうすれば、一度は普通に書いているから読みにくくはならないし、補足を入れることによって厳密にもなる。

 

早速はじめてみよう。なお、早速、というのはこの段落からという意味である。「早速初めてみよう」という文は、普通に書かれているという意味で今日の試行の一部であり、したがってそのあとに続くこの文章を含む部分は、細かすぎる説明ということになるわけである。

 

こんな文章をどこかで読んだ気がしてきた。どこかというのは出典が思い出せないという意味であって、わたしが実際にそういう文章を読んだときに存在していた、地理的な座標のことを指すわけではない。気がしてきたというのはやはり出典が思い出せないという意味であり、それが本当に存在したかどうかは、「こんな文章」をどう定義するかによって変わってくる。「こんな文章」というのは細かすぎる補足のついた文章という意味だから、わたしの推測では、たぶんごまんと存在する。

 

どこかで読んだ気がするのは良いことだ。それはこういう文章が、実際に表現として成立するということを意味しているからだ。実際のところ、表現として成立するという結論を出すためにはどこかで読んだだけでは少しばかり足りず、それがよい表現だったという条件が必要になるのだが、覚えているということはきっとよい表現であったにちがいない。あまりにもひどくて逆に覚えているという可能性もあるが、それならその感想も含めて覚えているはずだから、たぶんよい表現だったはずだ。

 

なんだか昨日よりはマシに見えてきた。内容はさておき、昨日よりは面白い気がする。内容はと言えば、文体についてその文体で語るという形式である以上、面白くなどなるはずがない。自己言及的な名文なるものをわたしは見たことがない。内容がないよう、なんて駄洒落を言うつもりはないけれど、そして「言うつもりがない」と言っている時点ですでに言っているわけだけれど、とにかく「マシ」というのは、あくまで文体の話をしているのであって、内容は無関係であると最後に断っておく。