非想定のあなたへ ①

 ちょうど二週間のあいだずっと懲りずに同じテーマについて書いてきたが、そろそろ飽きてきた。キリは悪いがおしまいにしよう。

 

 こうやって気軽に打ち切れるのが日記の良い点である。だれに向けて書いている文章でもないから、やめてもだれも困らない。

 

 いいや。いかに自分のためだけに書いている文章だとしても、もしわたしがインフルエンサーかなにかで、この日記がたくさんのひとに読まれる人気のものだったのであればたぶん、ここまで気軽には打ちきれなかっただろう。だが幸か不幸かここはそうではない。そうではないから、打ち切れる。

 

 自分がどう思っていようが、立場はいやおうなく責任をつくる。有名人を目指したかいなかにかかわらず、有名になれば書けることは減る。そしてわたしはなんでも書ける。ここでのわたしの立場は、わたしにこのうえない無責任をもたらしてくれるから。

 

 いいことだ。ここはただ思ったことを垂れ流す場なのだから。

 

 なんでも書けるというのは文字通りの意味ではない。だれも読んでいないとはいえここはインターネットである。善意の読者がだれもいなかったとして、悪意の読者がいないとも限らない。だからあからさまにだれかを侮辱することはできないし、社会通念に反する行動を告白することもできない。

 

 もっとも、ほんとうに悪意の読者がついている、と主張するのはおそらく思い上がりだろう。いまのわたしは燃やされるほど偉くない。だが現在の時点でついていなくても、未来のいつかそういう読者があらわれるかもしれないから、用心はしておかなければならない。その読者とやらが、人間なのか AI なのかは知らないが。

 

 というわけでここがインターネットであるという制約はもちろん書けないことを生み出すのだけれど、それ以外の制約からは、ここはすこぶる自由である。

 

 わたしは読者を想定する必要がない。これが意味するところは、読者を喜ばせるために文章中でいかなるサービスをもする必要がない、というだけにはとどまらない。次を楽しみにしている読者、というものをわたしは想像しないのだ。そんな相手はたぶん存在しないから。

 

 ここ二週間、話は同じところを堂々巡りしていた。書き始めたときは面白いことが書ける気がしていたが、いまいち形にならなかったのだ。だがそれに読者をつき合わせた、ということに対する罪悪感はわたしにはない。あるいは、あの一連の文章のなかに宿っている、わたしには分からないなんらかの魅力に気づき始めた読者を放り出して逃げてしまったことを、わたしは悪いとは思わない。

 

 わたしはだれに読まれるとも思わずに文章を書いている。不思議なのはわたしがそれを公開し、インターネットという制約を受け入れてなお、執筆の継続を選んでいることである。