A ならば B である。
これが「B ならば A である」を意味しないことは、中学だったか高校だったかの数学で習うことだ。習った記憶はないが、習うことにはなっているらしい。教科書的な知識によるとこれは逆か裏のどちらかで、わたしの記憶がただしければ、たしか逆と呼ばれていたはずだ。
というかわざわざ数学なんか持ち出して小難しいことを言い出さなくても、普通に生きていれば分かることでもある。
しかしながら現実には、これは必ずしも普遍的な考えかただというわけではない。具体的かつ極端な例を出して、「苦いならばそれはコーヒーである、っていうのは嘘だよね」とかそういう個別の事象を理解してもらうことはできるとして、そのひとが論理的には全く同じ「三以上の奇数ならば素数である」を同じように鼻で笑ってくれるとは限らないのだ。数学者の思うほど世の中の論理は論理的にはできていない。論理を論理として扱うことに慣れていない人間の論理は、直感や常識と不可分である。
などということを引き合いに出して、この国の教育事情を嘆くつもりはない。そういうことは、自分の数学的感性が世の中のすべてを解決するという確固たる信念を持った、慈善家で教育熱心な数学者たちに任せておけばよい。
A ならば B である。この言明は数学的に「B ならば A である」をまったく意味しない、ということを、ここで疑うつもりはない。
だが意味はしなくても連想させはする。A が B だと言われれば、明示的にそうは言わないとしても、なんとなく B が A であるような気がしてくる。B と聞いたときに、A のことが想起されるようになってくる。
そしてその事実を、サイエンス・フィクションは自分の世界の正当化に使っているように、わたしには見える。
B である、という前提を記述することで、世の中に A が問題なく存在できることを正当化しようとしているのだ。
具体例に行く前にまずことわっておこう。それに挑戦しようとしないほぼすべてのフィクションのなかで、論理は変わらず論理である。A が B なら B も A である、という世界は、そうすることを狙って作らないかぎり、創作物のなかにも存在できない。どんなに突飛な世界でもだいたい、論理だけはわたしたちの世界とおなじものを使っている。
しかしながらサイエンス・フィクションは文学である。数学的、科学的な論理だけに依拠するものではない。そして文学的な論理とは、さきのようにある程度、直感や常識と不可分なものである。