ファンタジーの正当化 ④

 ファンタジーにあらわれる王道の展開とは、物語内のギミックにもっとも簡単に説得力を持たせることのできる手段である、という話を昨日はした。今日はふたたびサイエンス・フィクションに戻って、似たようなものがそこにあるかどうかを考えていきたい。

 

 結論から言えば、サイエンス・フィクションにはそのようなものがあまり存在しないように思う。反対にこの分野には、いわゆるファンタジーの王道的な展開に論理でノーを突き付ける傾向があるように、わたしには見えている。

 

 どういうことか。たとえばファンタジーには、土壇場の集中力やら根性やら思いの強さやらでなにかが解決されるという展開がよく見られる。それはファンタジーのお約束であって、裏を返せばそれは作者にとって、うまく土壇場さえ設けてしまえば登場人物にはそれなりに無理のあることをさせてもよいのだ、ということを意味している。

 

 けれどもサイエンス・フィクションのおおくはそれを拒否する。そこには純然たる事実であり、そしてある種信仰とも呼べる観念が横たわっている。つまり、科学とは客観的であり、わざわざ主人公の窮地に寄り添ってくれるようなものではないという理念である。科学は魔法と違って融通の利かないものだから、どうしようもない状況は文字通り、どうにもならない。

 

 もしサイエンス・フィクションを銘打つ作品で、いわゆるファンタジーの王道的なご都合主義があらわれればどうなるだろうか。べつに王道じたいはあくまでありうる展開のひとつであるから、王道であることそのものが批判を受けるいわれはない。けれどもファンタジーのように、展開が王道であれば多少の疑問は大目に見られるという文化はおそらくなく、王道を語る際にもまた科学的な(正確に言うなら、科学風の)説明というか、正当化が必要である(そして逆に、科学風の説明さえつけば、主人公が妥当に敗北するという結果も受け入れられやすくなるようにも見える)。

 

 ではサイエンス・フィクションに王道はないのか。

 

 そんなことはもちろんない。どんなジャンルであれ、それがひとつのジャンルとして分化しているということは、王道が存在するということでもある。宇宙人が攻め込んできてそれを撃退する話、あるいはなんらかの意味での制圧下に置かれる話。他人の精神に入り込む話、管理社会への反逆、パラレルワールドの自分と出会う話、宗教と死後の世界。けれどもわたしがサイエンス・フィクションを好きだと思う点のひとつは、どうにかして逆を行ってみよう、それらの話の王道的な展開とは別の道を開拓しようという試みが、嫌われるどころかむしろ推奨されているように見える点にある。