科学の定義 ⑨

 大規模なシステムであって、制作にはひとりにはとうてい無理なほどの莫大な作業と込み入った知識を要し、だが科学とは呼ばれないもの。そんなものがあるか、一日考えたが、思いつかない。

 

 だからこれは結論にしてしまおう。そういうものはみな科学であると。反例があれば教えて欲しい。議論を通じて自分の結論を変えるだけの柔軟性をわたしは持っているつもりである。

 

 そしてそう考えると、科学のまたひとつの特色が見えてくる。

 

 科学とはつねに、細分された要素の集合体である、ということだ。

 

 魔法を用いてなにかを実現したい場合、魔法使いはどうするか。かれらはとにかく、結果を思念する。たとえば火をおこしたければ、かれらが思い浮かべるのは火という結果であり、あるいは火を連想させる強烈な怒りである。じゅうぶんな魔力か情念の力があれば、それだけで火は灯される。

 

 科学のアプローチはそうではない。火を灯したければどうするか。科学者はまず火を、より細かな要素に分解する。火が付くためには燃えるものが必要だ。燃えるのを助けるための酸素が必要だ。そのうえで用意した物質を、発火点あるいは引火点なる温度に至らしめるための仕組みを組み上げなければならない。

 

 その仕組みとはなにか。古典的には摩擦熱であり、これには木材を高速でこすり合わせることのできる器具を要する。あるいは火打石を使う。発火しやすい燃料をそれらの手段で発火させたのち、引火を試みてもいいかもしれない。どれでもいい。だがどれかを用いなければならず、そのどれもが、また別の科学原理に基づいている。

 

 このように科学とは、科学がじゅうぶんにそれを分解できたと判断するくらいまで細かく目的を細分化することによってはじめて、結果を出すことのできる体系だと言える。

 

 それらの設計には明確な意志がいる。理解、と呼んでもいいかもしれない。怒りが炎を呼ぶ、といった直接的な連想ゲームの居場所はそこにはない。科学における火の構成要素の一個一個は、もはや火から自然に連想されるようなかたちをしていない。そこにはかわりに、壮大かつ複雑な論理の体系がある。

 

 そういう体系に基づいているからこそ科学はなにをするにも複雑で、ひとりが一生のうちに得られる知識だけではとても、巨大なものを作れはしないわけである。

 

 その事実は、わたしたちが目の前の技術が科学らしいかどうかを判断するための根拠として、どのような役割を果たしているのだろうか。