振り返り:日記とは

一年前のわたしは、いったいなにを書きたかったのか。昨日まではその視点から、この一年間を振り返ってきた。まだまだ振り返り足りないが、いつまでも続けるわけにもいかない。というわけで今日は、ひとつ別の視点から日記を眺めてみることにしよう。

 

ひとつ、問いを立ててみよう。日記とは、何のために書くものなのだろうか。

 

正解があるわけではない。日記を書くのはひとの勝手、誰かの動機を捕まえて、やれお前の動機は不純だとか間違いだとか、そんなことを言う権利は誰にもない。この問いはむしろ、不正解の存在しえない問いだ――正解のない問いと呼ばれるものが、しばしばそうであるように。誰かが動機だと言えば、正当な動機なのだから。

 

では、わたしにとっての動機とは。語りたいテーマだが、いまはいったん後回しにする。かわりに、もう一つの問いに進んでみることにしよう。

 

もう一問。日記とは何なのか。

 

……もちろん、正解はないという答えは正解だ。書くひとの数だけ日記はあり、それぞれに異なる形があるのだ。日記とは何なのかは定義できない――理由は、先ほどと同じ。完全に正しく、それゆえに何も意味しない答えだ。

 

もう少し解像度を上げてみよう。何が日記なのかはわからなくても、何が日記でないのかなら分かるのではないだろうか。単なる文章と、日記の違い。文章が日記であるための必要条件。

 

難しく考える必要はない。馬鹿にでも分かる答えがある。

 

そう、毎日書くかどうかだ。

 

日記とは、毎日書き記すものだ。毎日を題材に書くものでなかったとしても、毎日習慣的に書くものではある。そうすることじたいに意味がある――習慣そのものに、ひとは意義を求める。単発の文章では、達成されえない意義をだ。

 

毎日書くことは、それなりに苦しい。書きたいことがない日も、書かなければならない。わたしはだいぶ慣れたが、それでも日課とは面倒なものだ。

 

そしてその形式にこそ、わたしの求めているものはある。

 

最初の問いに戻ろう。日記とは、何のために書くものなのか。

 

より限定的には、わたしは何のために、日記を書き続けているのだろうか。書くべき内容を見失い、書きたい文章を書くという目的からときに逸脱してまで、書き続けることの意義は何なのだろうか?

 

もちろん、恐怖はひとつの理由だ。一日でも休めば、休むことが習慣になって、ついには書く習慣そのものが消えてしまう。だから一日たりとも休むことはできない。長年の自己分析の結果、わたしはわたしの感情を、わたし自身を縛り付けるために利用するすべを覚えた。解放されたわたしが何かを続けられるわけがないという、わたし自身に対する不信感をだ。

 

だが、恐怖だけでは理由にならない。休み続けることを、恐れなければならない理由がないからだ。

 

さてでは、その理由は。書かないことと書き続けることを比較して、書き続けることを選び続ける理由は。

 

正確には、分からない。だがきっとわたしは、心のどこかで思い続けているのだろう。書くことが好きだと。ずっと、書き続けていたいのだと。