振り返り:胸を張ること

しばらく脱線していたが、振り返りに戻ることにしよう。

 

この日記それ自身、というテーマを、わたしはさんざん使ってきた。

 

日記を書くこともまたわたしの生活の一部なのだから、当然の選定だろう。毎日一時間を日記に費すとして、生活の二十四分の一を、わたしは日記を書いて過ごしていることになる。それだけの時間をかければ、日記には一家言あります、という顔をしても許されるだろう。

 

実際、一家言はある。文章という対象への関心は、日記をはじめる前と比べて格段に大きくなったと自覚している。そこらで見つけた文章を読むとき、内容いかんよりもまず全体の構成を気にすることが多くなった――そしていい表現を見つけたときに、心に留めておこうと試みる機会が格段に増えた。

 

だから心置きなく、わたしは文章そのものをテーマにしていい。文章の書き方について気づいたこと、その技術を記録することに、この場を費やしてもいい。それこそがわたしの生活なのだから……

 

……というのはまあ、詭弁に過ぎない。書いてもいいことは、書く理由にはならない。よい文章に関するなにか。それはわたしが書きたいことではない。

 

この場はあくまで、わたしの思想を語る場所だ。指南書とかハウツー本とかにする気はない。

 

それでもわたしが、日記そのものを題材にする理由。もう聞き飽きただろうがもちろん、書くことがない日があるからだ。これまでさんざんしてきた言い訳。「さんざんしてきた」という自己言及にすら飽きてくるほどに。

 

さて、だが今日は日記に関して書く。別にネタが切れているわけではない。振り返りとは、そういうものだ。

 

わたしは欠かさずに書き続けた。それがこの日記の価値のひとつだ。あるいは、わたし自身の。では、続けるのは簡単な作業だっただろうか。

 

ここ数日の話の流れからすれば、答えは簡単だ。答えは、「簡単だ」だ。なにかをわざわざ辞めることは、続けることよりはるかに難しい。

 

一度できた日課は、辞めようと決断しない限り続く。そしてほとんどのひとがそうであるように、わたしは決断が苦手だ。時間も食うし、キリもいいからそろそろ終わろうか……と一か月前には思っていたのだが、結局辞める決心がつかないまま、ここまで来てしまった。

 

だから。わたしが今日、文章の構成に悩まされているのは、ひとえにわたしの優柔不断ゆえだ。

 

だが。今日はあえて、逆を言ってみよう。続けることは簡単ではなかった、と。

 

簡単ではない。

 

なにかを続けたひとが、決まって言うセリフだ。曰く、続ける過程で数々の困難があった、心が折れそうなときもあった。曰く、それでもわたしが続けてきたのは……うんぬんかんぬん。周りへの感謝とか幼少期の夢だとか、それらしい理屈が後に続く。

 

わたしの場合はどうだろう。単純に、時間がかかる。研究あるいはゲームにかけられる時間が、明らかに減っている。気力に至ってはそれ以上で、時間的拘束以上に、一日が短くなったように感じる。そのくせ、誰が読んでいるのかもわからない。書くことがない日だってある。忙しい日は、まあ……こんな世の中だから、そんなになかったと記憶している。

 

まあ、正当な困難だろう。書くということの手軽さに照らし合わせれば。

 

困難ななにかを続けることとは、胸を張れる行為だ。世間では、そういうことになっている。続ける理由は、意志の力でなくてもいい。決断というより大きな困難を避けるためでも、困難は受け続けているだけで偉いのだ。

 

だからわたしは、胸を張る権利くらいはあるだろう。優柔不断なだけで威張れるなんて、都合が良すぎる気はたしかにする。だがこの場合、気にしないのがおそらく正しい。

 

胸を張っていい場面で、自分を小さく見せること。理屈を捏ねまわす姿は、まったく謙虚などではない。別の名前がついている。

 

そう。卑屈、という名前が。