あらすじのような文章になっています

 全体的にあらすじのような文章になっています。

 

 説明不足が目立ちます。細部への想像力を働かせましょう。そうなったという結果は分かります、だがそこではいったいなにが、なぜ、どのように起きていたのか? という詳細を、読者は求めているのです。

 

 とか書かれるのが嫌だったので、ものごとの詳細を書くようになった。

 

 実際のところは、わざわざこんな日記を見にきたうえで上から目線であれこれコメントを残す人間などいなかったから、この対策は杞憂だったということになるが、そういう話ではない。小説を読んでいるとよく、細かい部分に残った疑問がいつまでも解消しなくてもやもやする、という経験をするし、だから読者をそういう気分にさせる文章をわたしは書きたくなかった。

 

 より正確に言えば、魂を売りたくなかった。自分に似た読者が説明不足に感じると分かっていて、わざとそのことを無視したり、ほかに合わせたりするという行為には耐えられなかった、というわけだ。

 

 だが物語の中には、全然詳細など語らず、すごい速度で進んでいくものがあるのである。

 

 悪いことではない。

 

 それで疑問が発生しないなら。説明不足なのではなく、単に必要最低限だけが書かれている、という印象を受ければ、それはそれで構わない。というか、最低限がきちんと書かれている文章とは、よくまとまったいい文章だ。

 

 そういう文章の構成はどうなっているか。詳細のない文章の詳細を探ってみる。

 

 詳細を中途半端に語れば疑問も出るが、語らなければなにも起きない。なにもないところから新しい疑問を引っ張り出して来るということがいかに難しいかは、研究をやっている人間ならよく分かる。あらすじを膨らまして物語にすることも、きっと小説を書いていれば、難しいと感じるようになるはずだ。

 

 そう考えれば、小説を書きたければただあらすじを書けばいい、ということになるだろう。すくなくとも、文句の出ない小説を目指すのであれば、の話だが。

 

 あらすじの文章をそのまま掲載して、それで構わない場面というものがおそらく存在する。作中の時間軸の大半を占めるシーンを、数行から数ページの説明だけで一瞬で終わらせるという緩急の急の部分は、だいたいどの小説を読んでいてもどこかにはある。全部をそうしてしまうと冒頭のような指摘を受けるが、そうする箇所がないと、濃密すぎて息も続かない。読者は挫折する。

 

 じゃあどこをゆっくりやるのがいいかと言われると、クライマックスはゆっくりやるのだということ以外に、大した法則性は見当たらない。もしかすると、気が向いたところや思いついたところを膨らませればいいのかもしれない。