書くべきこと、書くべきでないこと

物語を書くとして、作中の情景が十分に頭に思い浮かんでいるとして、それを本当に書くべきなのかどうか。簡単な二者択一に見えて、考えてみるとよくわからなくなる。

 

書き手ではなく、書かれたものを評価する読み手にとってなら、話は難しくない。ある種の文章を、わたしは読んでいてくどいと思う。そんなに事細かに説明しなくていいから、先に進んでほしいと思うことは多い。そうかと思えば、世の中には説明不足に感じられる文章はたくさんあって、そういう文章を読むと、もっとちゃんと書いてほしい、と思うわけだ。

 

普段論文を読み書きしているからだろう、わたしの感性はおそらく、後者の側に偏っている。なにを読んでいても基本、説明しすぎだと感じることより、わざわざ説明されていない細部が気になってきてしまうことのほうが多いのだ。もちろんそれが、わたしのいわゆる「理系的」な脳が持っている特質であって、これといって尊重されるべきだと主張できるものでないということは、理解しているつもりだが。

 

思えば研究の文脈には、書きすぎという概念は存在しないみたいだ。自分の研究の立ち位置をアピールするためなら、関連研究は挙げれば挙げるほど良い。定理の証明の雰囲気は、いくら説明しすぎても説明しすぎるということはない。証明それ自体だって、行間が広すぎて分からないと言われることはあっても、説明がくどいと言われることはない。説明は基本的に、すればするほど、いい論文とされるものに近づいていく。

 

けれど論文とその親類を除けば、なにかを書きすぎている文章はどこにでもある。数学的・論理学的な正確性が要求されない分野では、あるいは情報を過不足なく伝えるのを超えた目的で書かれる文章には、加減というものが必要なのだ。

 

小説の具体的な場面として、物語の都合上、主人公に居場所を変更してもらわなければならない状況を考えよう。そこには移動が発生するわけだが、それをどれくらい記述するのかは、そもそも書くのかどうかを含めて筆者の裁量にかかっている。たとえば道中で物語上重要な会話をさせるつもりなら最低限、主人公がなにに乗っていたのかくらいは書くべきだろう。移動手段がたとえ重要な情報ではなかったとしても、どこにいるのか分からない状況で繰り広げられる会話は気持ち悪い。逆に、移動というイベントに物語上の役割がなく、ただ場所を変えてくれていればそれでいいという場合、それはきっと書くべきことではないだろう。黙ってひとりで電車に揺られている描写なんかをしている暇があれば、さっさと次のシーンに飛んだ方がいい。

 

こんな感じのことが、芸術としての文章には山ほどある。そのどれを書き、どれを書かないのがいいのかは……とりあえず書いてみて、あとから見てみないと、なかなか分からない。