読む速度

文章を書く速度は、この日記を続けることでだいぶ改善したように思う。最初のうちは文章をひねり出すのに四苦八苦して平気で二時間も三時間もかけていたのに、今ではだいたい、三十分くらいで書き終わる。それでいて文章が下手になったとも内容の質が落ちたとは思わないし、量に関してはむしろ増えている。

 

このように書くほうは、訓練次第で結構速くなる。同じ文章を書くために、はるかに小さな労力を費やせば済むようになる。けれど読むほうといえば、どうにも一向に速くなる兆しがない。それどころか、ろくに小説など読んでいなかった中学生の頃と比べてすら、遅くなっているような気がする。

 

わたしの読む速度は、たぶん世間一般と比べても遅い。二百ページの小説を読むのに六時間はかかる。世の中が活字であふれている現代に、最も活字であふれるツールであるツイッターを眺め続けていてもそうなのだから、救いようがない。インターネットばかり読んで縦書きの文章を読むのに慣れていないわけだなと言われても、おそらくそれも原因ではない。横書きの小説を読むときだって、全然スピードは出ない。

 

推測するに、これはわたしの経歴に関係している。経歴柄、よく読んできた文章の種類にだ。長い間を数学とともに過ごしているわたしは、そのせいできっと読み飛ばすことを過剰に恐れている。というのも数学の文章とは、たった一文読み飛ばしただけでとたんに分からなくなってしまう代物だからだ。

 

数学の文章を読むときのわたしは、ある種の戦闘モードに入っている。一字一句たりとも読み飛ばしてはならないというプレッシャーに自らを晒しているわけだ。それはきっとわたしに限った態度ではなく、数学をある程度やったひとなら誰でも持っている読み方だと思う。少なくとも数学の文章は、そうやって全力を傾けてくる読者を想定して書かれている。

 

そんな読み方をわたしは、おそらくそんな想定で書かれてはいないはずの小説にもまた適用してしまうわけだ。

 

小説には思わぬところに伏線が隠れている。そのいくつかは、気づいていないと物語を楽しめないタイプの伏線かもしれない。けれど残りのほとんどは、気づいたほうが楽しくはあるものの、気づかなくても問題なく読めるものだ。それに全員が気づくとは作者はきっと思っていないだろうし、むしろ逆にそれは、見えにくいものを見ることに成功した聡明な読者への、筆者からの秘密のプレゼントだ。

 

プレゼントは秘密なのだから、それを受け取る必要は必ずしもないし、きっとほとんどのひとは受け取っていない。そんなことをするより、世の中に無数にある本たちの次の一冊に手を出した方が効率的だ。けれどわたしの読み方では、プレゼントの受け取りは義務になってしまう。それを受け取ろうとしない読み方を、わたしは知らないしできない。たとえそれが、半分まで読んだところであまり面白くないと気づいた小説であっても。

 

だからわたしは、量を読むことができない。

 

もしかすれば、これもわたしの技術不足なのかもしれない。量を読めないことに構わず量を読めば、全てのプレゼントを受け取りながら素早く読めるのかもしれない。けれどそれが本当かは、やはり疑わしい。というのも。

 

書く速度は上げられると、わたしは最初から信じていた。そして実際、そうなった。けれど読む速度のほうには今のところ、速くなると信じる理由はなにひとつ見つけられないのだ。