過剰描写

小説を読んでいると感嘆させられることのひとつに、描写の精度の高さがある。物語の舞台である架空の世界を、とうぜん見たことがないはずなのにもかかわらず、そんな世界の細部について筆者は、まるで見てきたかのように描写する。読者はそれを読んで、架空の世界の出来事であるにもかかわらず、まさしく起こりそうなことだ、と思う。

 

そんな経験をしているから、描写の細かさを、わたしは無条件にいいことだと信じてきた。細かければ細かいほど、筆者は自分の書いている世界についてよく理解している。逆に詳細が明かせないのであれば、それは物語を展開しようとしている世界という根本的なものに対して、まだまだ理解が甘いということを意味する。なにか作品を世に生み出そうとするひとならまず、その作品について誰にもまねできないほど完璧な詳細さで理解しているべきだし、そういう状態になるまでは最低限、世界の探究を続けねばならないとわたしは思っていた。

 

けれども。その認識は間違っていたかもしれない。そう思わせてくれる出来事があった。

 

わたしは小説を読んでいた。といってもプロの書いた小説ではなく、プロになりたいと志しているひとの作品だ。その小説は面白かったが、書き手がプロではない以上、文章には気になる点があった。どうやら、あらゆることを枝葉末節に至るまで、詳細に描写しなければ気が済まないようなのだ。

 

文章の質についてもどかしく思ったわたしは、わたしがこれを書き直すならどうするか、ということを考えてみた。そうしたならきっと、ストーリーを変えないまま、文章は三分の一になる。「あなたはどうでもいいことを書きすぎています、たとえば……」――そう、伝えたい部分がたくさんあったからだ。

 

書かなくていいことは書かなくていいという当たり前の事実に、わたしはそのとき気づいた。あの小説はたしかに、あの世界で起こりそうなことをくまなく列挙していた。世界への解像度はきっと高かった。けれど、それを全部書いてはいけない。

 

では。そのなかからなにを切り捨て、なにを残すべきなのだろうか?

 

分からない、で締めたくはない。あの小説を思い出せば、答えは見えてくる。あそこに書かれすぎていたことは、物語のテンポを削いでいたのだ。それが起こるのは分かる、でもそれが起こるということにわたしは興味がない。まるでイベント中に起こったことをすべて事細かに説明するなにかの参加体験記のように、斜めに読み飛ばしてしまいたくなる描写で溢れかえっていたのだ。

 

つまり。正しい描写とはおそらく、物語の進行とは関係のない部分に、すこしだけ、クリティカルな描写を挟み込むことだ。そうすればきっと、くどいと思われることなしに、世界への解像度をアピールすることができる。