魅力と向き合え

 物語を書くには、他者を書くことを避けては通れない。

 

 といっても他者は、かならずしも物語の中心にいる必要はない。わたしの好きな SF の分野ではとくにそうなのだが、ほとんどが主人公の行動と思考だけで進む、まるで独白のような物語はありうるのだ。考えてみればそれもあたりまえで、舞台設定が地球と隔絶された宇宙船の中だったなら、他人が主人公の行動を変えることのできる機会はかなり少ないはずなのだ。宇宙は美しいかもしれないが、ひとの考え方に影響を与えられるほど豊かな場所ではない。

 

 けれどもそういう作品にも、しばしば他者は存在する。宇宙飛行士が生存と任務のために淡々と仕事を果たす以上、かれらが同乗者にほだされるということはあまりないけれど、それでもそこにはよく同僚が存在して、一緒に任務にあたる。人間の同僚がかりに存在しなかったとしても話し相手の AI が存在し、壁打ち的な会話をしてくれる。ではなんのためにかれらは存在しているのか。作者はなぜ、そんな毒にも薬にもならない存在をわざわざ設定するのか。

 

 思うにその理由は、主人公の思想を相対化し、際立たせるためである。主人公と対称的な考えを持つ存在を身近に置いておき、主人公と反対のことを考えさせることで、主人公の独白は客観性を得られる。もし宇宙船にいるのが主人公ひとりなら、主人公の意見とはすなわち世界の意見であり、独白は世界の記述であり、それにいっさいの疑問をさしはさむ余地はなくなってしまう。そういう場の主人公とはもはやキャラクターではなく、ナレーションのようなものだ。

 

 かくして他者は、物語に必要である。主人公を際立たせる以外のなんの役にも立たなかったとしても、他者には設定される意味がある。現実世界でだれかに「お前の存在意義は主人公の比較対象だ」と言えば失礼極まりないが、相手は創作の中の人物なのだから、それで構わないのだ。

 

 そして昨日述べた通り、そんな他者はどうせなら、魅力的なほうがいい。主人公のためにではなく、あくまで作品の価値のために。

 

 というわけでわたしは結局、キャラクターを描くことから逃げられない。あいにくなことにわたしはキャラクターの魅力の評価基準を自分自身の感性以外に持ち合わせていないから、つまりわたしは、自分自身の感性と向き合わねばならない。自分が作ろうとしているキャラクターに魅力を覚えるかどうかをたえず自問自答せねばならず、そしてこれが最も難しいことなのだが、そうして魅力的だと思ったものを外に出すことを恥じてはならない。あえて下世話な言いかえをするとすれば、わたしは自分の性癖や欲望と向き合い、答えが出た暁には、それを衆目の前で公開しなければならないのだ。