ミニチュア版数学史

残念ながらわたしは、書かれたままの数学を書かれたままに理解し、そして運用できる種類の人間ではない。以前に書いたとおり、本や論文に書かれた数学を、わたしは、わたしが考えるためのことば、すなわちイメージに、わざわざ訳してから理解する。

 

逆に、わたしが数学を考えるとき、もちろん、わたしはわたしが数学を考えるためのことばで考えている。そうして論文を書くとき、わたしはわたしのイメージを、数学を書くためのことばに翻訳する。

 

翻訳は、かならずしも順調に進むわけではない。翻訳をはじめるとき、ほんとうにわたしのイメージが数学を書くためのことばに翻訳しきれるのか、わたしにはわからない。数学を書くためのことばにできるとは、すなわち数学的にただしいということだ。だからすなわち、わたしのイメージは、わたしがほんとうに数学的にただしいことをしているのかどうかを教えてくれない、ということになる。

 

イメージのただしさを検証するには、じっさいに翻訳してみるしかない。かくしてわたしは、書くためのことばを経由して数学を理解している。数学を考えるためのことばだとか、たいそうなことを言っておきながら。

 

わたしにとって研究とは、相互翻訳のいとなみと呼べるかもしれない。わたしはイメージを書き言葉に翻訳しようと試み、イメージが教えてくれなかった問題に行きあたる。書き言葉の教えてくれた問題をわたしはイメージに翻訳し、イメージの領域で解き、そしてまた書き言葉になおす。このプロセスをくりかえして、論文はできあがってゆく。

 

このように、わたしの論文は、部分的に成功した翻訳を何重にもかさねてできるつぎはぎだ。この日記のような一時間の一発書きとちがって、できあがった論文は、当初予定していたすがたとは似ても似つかぬものになっている。

 

さて、論文とはひとに読ませるものである。そして、はじめの構想とはまったくことなるそのつぎはぎは、とてもひとが読める構造をしていないことがある。

 

だからわたしは、証明の順番をいじくりまわし、わかりやすくなるまで注釈をつけつづける。こうしてようやく、論文は完成する。言い換えれば、完成した論文とは、こうしてかろうじて読めるようになったもののことを指している。

 

視野を広げてみよう。相互翻訳をくりかえしたあと翻訳文をまとめなおすというこのプロセスは、おそらく、すくなくない数の研究者に共通のものだろう。すくなくとも、わたしはそう信じている。

 

そしてわたしは、ここで奇妙な符号に思いあたる。わたしたちは教科書や論文に書かれた知識を翻訳によって吸収し、それをもとに論文を書く。ある程度論文があつまったら、だれかがその知識をまとめ、教科書にする。相互翻訳とまとめなおしのプロセスだ。そう、論文を書くとはすなわち、人類が数学をするプロセスの超・ミニチュア版なのだ。