ヒロイン案 ➄

 その日の帰り、夕方の急行に乗り込むや否や、ぼくはまっさきにスマホを開き、彼女のプロフィールを再確認した。

 

 田中陽子、と彼女は名乗った。似合わない、とぼくは、その日何度も繰り返し思った事実を再確認する。変幻自在の冷たい女性をあらわすのにその名前はあまりに普通過ぎるし、髪を青く染めた今日の姿にだって、やっぱりマッチしない。名前と人となりは一致しないものだとわかっていても、それらを独立の事象としてとらえるのを脳が拒否する。

 

 幻滅させてあげる、と彼女は宣言し、そして実際にその通りのことをした。まず最初に、彼女はぼくにその似合わない名前を教えた。それが似合わないということ以上に、彼女の正体をこれほど簡単に知ることができてしまったという事実がぼくを悩ませていた。

 

 これ以上を知ってしまえば、イメージはきっと跡形もなく崩れてしまう。そのことが、ぼくがいちばん恐れることだった――そして彼女と話すまで、そんな自分の感情にはまったく気づいていなかった。本能的にぼくは逃げ出そうとした。ぼくの心の中にある、奇妙で好奇心をそそる女性という彼女の像を守るために。とらえどころのあるべきでない概念に見えた手がかりを拒否するように。

 

 だがそんなこと、彼女はお見通しだった。だからこそ、ぼくに不都合な現実を見せつけたのだ。あのとき席を立つぼくの腕を彼女はがっしりと掴み、逃げ場はないとぼくは悟った。そう悟らせてくれることが、むしろあるべき姿のようで、逆に心地よかった。

 

 彼女はさまざまなことを教えてくれた。ぼくはただ、彼女のことばがぼくの頭の中で、新しく確実な像を結ばないようにするだけで精一杯だった。実像の持つ存在性の暴力にさらされれば、虚像は跡形もなく消え去ってしまう。だがそう意識すればするほど、彼女の分かりやすい表現は、はっきりとした声のトーンで、スムーズにぼくの頭に入ってくる。

 

 ものの数分でぼくは白旗を上げた。彼女に関して想像していたはずのあらゆるあいまいなことがらを、ぼくはもう思い出せなくなっていた。ぼくはいったい、彼女を何者だと思っていたんだろう? 何者ならいいのに、と期待していたのだろう? もしかしてそんなこと、まったく考えたこともなかったんじゃないか?

 

 ぼくは知ってしまった。彼女がいつも途中で帰るのは単に、アルバイトの予定があるからだということについて。彼女が実家で暮らしていること、演劇のサークルに入っていること。毎週違う格好をしているのは劇の役作りのためだということ。ぼくに幻想を持たれていることを完璧に見抜けたのは、単にそういう経験が前にもあったからだということ。

 

 ぼくはもう後には戻れない。幻想はぐちゃぐちゃになってしまった。連絡先を交換しようと彼女は言い、ぼくは素直に従った。たとえそれが幻想を守るための最後の分岐点だったとしても、断る気力はなかった。

 

 田中陽子と書かれたプロフィールの中で、彼女は笑っていた。先ほど彼女が、幻滅させてあげる、と言ったときの残忍な笑みではなく、だれもがするような屈託のない笑顔。見たくない、とぼくは思った。だがどうしても、その画面を閉じる気にはなれなかった。