証拠が必要ですか

現代社会は情報で溢れている。知りたいことをすぐに知るという点において、これほどまでに手軽な時代はかつてなかった。けれど同時に、調べて見つけた情報がはたして信頼するに足るかどうか……というのもまた、ずっと語られ続けている問題である。

 

この議論にはおそらく、昔あったものを信頼する無意識の効果が働いている。もしくは、労力への信仰とでも言うべきか。欲しい情報を手に入れるためにはみずから図書館に出向いて調べ物をしなければならなかった時代、その情報がただしいとだれもが信じていた。本というものが本質的に作者の妄言でしかありえないという前提は顧みられず、書かれているものは書かれているゆえに正しかった。そういう時代をわたしは生きていないから、その信仰体系が事実であったかどうかは分からない。けれど少なくとも現代人は、そう信じている。調べるには努力が必要だけれど、努力は正しさによって報われる、過去とはきっとそういう時代であったのだと。

 

そして推測するに。かりに誤った情報を掴んでしまったとしても、それを訂正するすべはなかったのだろう。それどころか、わざわざ図書館に出向く努力をしたという事実が、情報の信憑性を過剰に妄信させる効果を持っていたのではなかろうか。努力して得たものを、ひとは信じたがるものである。

 

……少なくとも。「こうすればガンは治る」といった怪しい本が出回り、紙の媒体の信憑性もまた疑われるようになった現代から見れば、そう考えるのが自然だとわたしは思う。昔は情報に信憑性があった、という考えは誤りだ。今も昔も情報なんて嘘だらけで、けれど真実が簡単に検証できる現代においては、昔は露見しなかった嘘が露見しているだけではないか。その結果わたしたちのほうが、嘘をついたり信じたりすることに対して次第に厳しい目を向けるようになっていっただけではないのか。現代しか知らない若造の妄想だが、少なくともそれなりに一貫した論理ではあるように思う。

 

さて。だからといってわたしたちのすべきことは変わらない。過去がどうであったかには関係なく、わたしたちは現代に生きているからだ。情報を取捨選択し嘘と真実とをより分ける、現代人にその能力が必要だということに関して過去はなにも語らない。そしてわたしの仮説が正しければ、人々が真実に対して厳格になった現代、選択の重要性は過去よりも高まっている。嘘はばれやすくなり、嘘つきは信頼されなくなり、昔なら語れたかもしれない眉唾なうんちくも、現代ではきっと通用しない。それをいい時代だととらえるのかは……まあ、ひとによるだろう。