探さなくてもいい

今日もまた学会に参加した。といっても今日のは国内だから、発表は日本語である。

 

母語で聞けばいいというのはやはり、かなり楽だ。単語と単語の切れ目を探すことに余計な集中力をつかわなくて済むし、聞き取れなかった部分を推測で補おうと努力する必要もない。スライドの文字は、わざわざ読もうとしなくても勝手に目に入ってくる。ひとの話を聞くのは苦手だけれど、それでも英語とは雲泥の差だ。

 

それに今日のは短かったから、ある程度は自然に聞けた。集中するということに集中しないと勝手に意識が飛んで行ってしまう、ということは特になかった。細部を聞き逃すことはあったが、置いていかれてどうしようもなくなりはしなかった。つまり、聞くための努力が必要なかった。

 

さて。前に参加した国際学会では、聞くということにわたしはもっと労力を傾けていたような気がする。聞きたいという気持ちで部屋に座り、すべての発表を聞くことを目指した。気力は有限だから、それで実際に発表が聞けるようになるわけではまったくないし、ましてや理解できるわけでもない。けれどそうしようと足掻いていたことは事実だ。

 

そういう気力を喪って、興味のあるものだけ聞ければいいという態度に変わった理由には、きっとそのときの教訓もある。すべてを聞こうとしても、気力も体力も当然持たない。だからできるだけ力をセーブして、聞くべきものだけに絞ったほうがいい。ひとつでも印象に残って自分を賢くしてくれる発表があれば、十分に学会を堪能できたと言える。分からないものはどうせ分からないし、興味のないものはどうせ興味がないのだから。

 

というのはまあ、それなりに真実らしい建前のひとつだ。建前としてよくできているとは思うが、真実とは少し離れている。

 

昨日書いた通り、真実のひとつはわたしの思想の変化だろう。学会のないあいだ、わたしは発表に関していろいろな思想を育てた。そして、聞くよりも体力温存に努めた方がいいと思われるいくつかの発表について、集中を切ることを覚えた。さっきの建前よりは、真実に近い理由。

 

そしてもうひとつの理由。それはきっと、わたしが新しい研究に飢えなくなったことだろう。

 

三年前のわたしは、常にテーマに飢えていた。だから気になったいくつかの発表の論文を読んで、それで何かができないかを考えた。学会に参加するのは次のテーマを探すためだったし、だから必然的に、学会は聞かなければならない対象だった。

 

けれどその試みはもうやめた。いまはテーマがあるというのが主要な理由だ。けれどそれよりも、もう正直、テーマ探しはこりごりだ。

 

わたしはきっとテーマ探しが下手だった。論文を読んで解くべき問題を探し、だが同時に、その場所はすでに著者が通った道であるということをなかば確信していた。おそらく、著者は実際に通っているのだ。それなのに論文に書かれていないということは、その問題が難しく、世界一そのテーマに詳しいはずの著者にすら解けなかったということなのだ。

 

そしてなにより、テーマ探しは面白くない。論文を読み、考え、考えるべき問題にすら行きつけずに終わる。有機的なことはなにひとつできず、ただ日々を無為に過ごす。たまに思いついた問題は解けないか、解けたところで先が見えている。

 

だから。たとえわたしがハングリー精神を失い、結果として話が聞けなくなったとしても、それはきっともっとよいことの副産物なのだ。